その翌日のことだ。センスパとの決別も解消しほっと一息つきたいところだったが今日は平日。つまり俺は学校でだ。
「いってらっしゃい」
 今まで通り、そう、今まで通りにセンスパに送り出され、俺は自転車のペダルを強く蹴った。
「おはよう」
と声を掛けられ、俺は振り返る。脇見運転だが、そんなことは気にしない。
 あの人が片手をあげてこちらを見ていた。俺も挨拶をして自転車の速度を下げ、あの人と横並びになる。あの人は俺の顔を少し眺めた後、
「先週とは別人みたいだね」
と一言。俺は軽く笑みを作ってから首を横に振って
「そう?」
と一言。あの人も冷静な微笑を見せて、無言で頷いた。


 学校に到着して鞄を置くと、あの人は俺の席の近くに来て窓辺のアルミサッシに軽く身体を預ける。そして言った。
「やぁ・・・・・、君のところにも来た?招待状」
 あの言葉に俺は目を見張るように驚いて、
「え?そっちも?」
と返答。あの人が頷いたのをトリガーに、俺の頭の中で回想が始まる。
 昨日の朝、センスパが俺のところにもってきた封筒。それを開けた俺は、そこに何が書いてあるか理解するのに数秒かかってしまった。
 そこに入っていた白い紙の上端には『学祭ライブ招待状』とゴシック体で書かれていた。
 差出人は『花鳥風月』。中学時代に俺達が結成していたバンド『MATERIALS』と敵対関係にあったバンドである。
 『MATERIALS』のメンバーは高校でばらばらになってしまったが、『花鳥風月』のメンバーは全員が同じ高校に行ってまだバンド活動を続けていると聞いている。そのメンバーうち二人にこの前、不良に襲われたところを助けて貰っていた。
 次の日曜日に高校で学園祭がありそこで生徒によるライブが行われる。『花鳥風月』はそこで大トリを勤めることになった。生徒会主催イベントのため本来ならば入場料300円が必要だが特別に無料招待チケットを同封した。是非来場して欲しい。そんな内容が書かれていた。たしかに封筒の中にもう1枚、小さな紙が入っておりそこには『学祭ライブ特別チケット』と手作り感満載で書かれていた。
 俺はてっきり、以前の不良との一件で俺が招待されたものだと思っていた。しかし、あの人まで招待されていたということは、『花鳥風月』の連中が俺に招待状を送ってきたのは『MATERIALS』絡みのようだ。
「向こうにどんな思惑があるか知らないけど、行くよね?」
 あの人が俺に尋ねる。俺は頷いてから
「ああ、もちろん」
と返答した。
 『花鳥風月』は中学校時代、ORANGE RANGEコピーバンドとして活動していた。そのため、アニソンをカバーして演奏していた『MATERIALS』とは自然と敵対関係に至っていた。向こうはアニソンを軽蔑していたし、俺達はORANGE RANGEを嫌っていた。
 そういう意味で俺達に招待状が送られてきたのは一種の挑戦である、というのが俺の見解だった。あと1ヶ月ほどでセンスパも発売される。この時期に挑まれた果たし状は、受け取るしかない。
「あいつにも来てるかなぁ、招待状・・・・・」
 あいつというのはもちろん中学時代に一緒にバンドを組んでおり、先日も一緒にキャンプに行ったり、センスパとの問題についてアドバイスをくれたあいつのことだ。
 恐らくあいつだけではなく、あの娘にも招待状は届いているはずだ。飽くまでも俺の直感だが。
 そのとき、背後から
「ねぇ、ちょっといい?」
と声がした。俺が振り返ると、そこにいたのはいつもの眼鏡をかけた女史の姿があった。
「なに?」
 俺より前にあの人が反応する。あの人が返事をしてくれたことに、女史は少し嬉しそうな表情を見せた。少なからず悔しい。
「あのね、父さんが会社で映画の鑑賞券を貰ってきて、期日が明日なんだけど、一緒に行ってくれる?」
 デートの誘い。もちろんあの人にだろう。俺は場違いを認識し
「いいね、行ってきなよ」
とあの人を促した。あの人も俺の方を見て小さく頷く。
 が、女史は慌てて手をひらひらと動かすと、
「いや、あなた達二人を誘ってるの」
と俺の方を見た。俺とあの人が不思議そうな顔をすると、女史は言葉を継ぎ足した。
「この券、五人一組の招待券なのよね――」


 次の日の放課後、駅前に集合したのは俺、あの人、女史の他に、妹さんとセンスパだった。何しろ急なことであったし五人一組のチケットの空席2名分を埋めるためにはそれぞれの身内を集めるしかなかった、ということだ。あのチケットは五人いなければ完全無効となる代物だった。
「よし、5人揃ったね。じゃあ、行こうか」
 あの人は全員を促して自分から電車に乗り込む。映画館に行くためには電車を使うのが最短且つ最善策であった。
「二人とも、ありがとうね」
 女史は初対面である年下二人(つまり妹さんとセンスパ)に両手を合わせている。急な頼み事に付き合ってくれてありがとう、という意味のようだ。
 妹さんとセンスパは二人揃って首を横に振ると
「いえ、いいんですよ〜」
「私、映画って観てみたかったんです」
と口にした。


 映画館のロビー――パンフレットや飲み物を売っている場所である――に到着して俺は自分の腕時計を確認する。18時35分。上映開始までまだ30分ほどある。
「何か買おうか。ポップコーンでも」
 俺の提案に全員が賛成した。
 平日だが長蛇の列を作っているポップコーン売り場の最後尾に並ぶ。並んでいる最中に俺達の中でも一番後ろに立っていた妹さんが口を開いた。
「いいなぁ」
「何が?」
 俺が尋ね返す。すると妹さんは、女史とあの人が楽しげな様子で(少なくとも女史は)話をしている姿をじっと見つめてから答えた。
「だってお兄ちゃん、彼女出来たみたいなんですもん。お二人も付き合ってるんでしょ?」
 お二人、というのは俺とセンスパのことのようだ。俺が言葉を発するために口を開くより前にセンスパが
「そういうんじゃないって!」
と否定した。俺は心の中で、あの人と女史の関係もそういうんじゃない、と付け加えるが口外には出さない。
「だったらお前も早く彼氏作ればいいのに」
 いつのまにかこちらに振り向いていたあの人が妹さんに言う。俺も
「そうそう、クラスの男子でも捕まえて・・・・・」
と補足。しかし妹さんはそれが気に入らなかったようだ。
「クラスの男の子じゃ駄目なんですよ〜」
「何で?」
 尋ねたのはあの人だ。
「それは・・・・・、なんとなくだけど・・・・・」
 妹さんは珍しくお茶を濁すように語尾を曖昧に表現した。
 と、その時だ。俺の服がくいくいと後ろから引っ張られたので振り返ると、そこにはセンスパが俺の顔を少しばかり見上げ気味に立っていた。
「何?」
 俺がそう言うとセンスパは俺に耳打ちしてきた。
「あの、妹ちゃんを元気づけてくれませんか?」
 センスパと俺の内緒話は、三人で話に夢中になっているあの人達には聞こえないだろう。センスパは続ける。
「いつも通りに見えますけど、落ち込んでるんです。私には分かります」
「でも、なんで俺が?」
「それは妹ちゃんは貴方のことが好きだからです」
 センスパの言葉に俺は少し驚く。
「・・・・・なんでそれを?」
「知ってますよ」
 当然、という顔をしたセンスパは少し誇らしげだ。
「友達ですから」


 映画が始まり俺達はシアターの中に入った。あの人と女史が隣同士で座っているのは当然だが、俺の右隣に妹さんがいるのは少し違和感を感じる。ちなみに妹さんの反対側にはセンスパが座って俺の方を見ている。さっき言ったことを忘れるな、と目で訴えていた。
 照明が落ち、映画が始まった。
 肘掛けに腕を乗せていた俺の右手に圧力がかかった。顔を動かさずに横を見ると、妹さんが俺の手を握っている。俺もその手を軽く握り返す。
 今度は首を動かし右を見てみる。妹さんもこちらを見ている。その上目遣いは少なからず魅力的だった。


 映画が終わり、俺達は映画館を出て電車に乗り、帰り道を歩いているところだった。
 時刻は9時過ぎ。高校生である俺やあの人、女史は別として、中学生の妹さんはこの時間に外を歩くのは少し問題のような気もする。
 映画が終わってから俺は妹さんに映画館の売店で映画のグッズを買ってあげた。妹さんを励ますと言っても、俺が思いついたことはそれくらいだった。
 あの人と女史は先を歩いており、二人で話をしている。よって俺はセンスパと妹さんの三人の集団で歩いていることになる。両手に花状態だが、緊張はしない。
「映画面白かった〜」
 妹さんが少し大きな独り言を言う。
「私もあんなロマンチックな恋がしたいなぁ」
 街灯が少ない道を歩いているためほとんど月明かりを頼りに進んでいる状態だ。今の状況もなかなかロマンチックなのではないだろうか、と思う。夜空にはぽっかりとまん丸の月が浮かんでいる。その周りを砂のように星が覆い尽くしているのだ。都会では珍しい、絶景とも言える満天の夜空だった。
「妹ちゃんは可愛いからきっとできるよ、ロマンチックな恋」
 センスパが言う。
「でも、あんな男の人いないしなぁ〜・・・・・」
「まぁ、あれは演技だしね」
 妹さんの呟きに反応したのは俺だ。
 俺の返答に妹さんは頬をぷくっと膨らませた。
「あぁ〜、それ、ロマンチックじゃないですよ〜」
「え、ああ、ごめん」
 とりあえず謝る。鉄則である。もちろん妹さんは本気で怒ったわけではなかったのだろうが、俺の口と声帯が自然に動いたという具合だ。
「えへへ、じゃあ――」
 妹さんは月明かりを背にくるりと回り、言葉を継いだ。
「映画みたいにロマンチックなキス、してくれますか?雰囲気を壊したお詫びとして」
「・・・・・え?」
 妹さんの言葉を脳内でリピートし、意味を理解する。・・・・・なんだって?
 俺の隣にいたセンスパはその言葉にさっと赤面したが、何の反応も示さない。聞こえない振りをしているようだ。センスパはセンスパなりに、俺と妹さんの雰囲気を作ってくれているのかもしれない。
 が、つい最近にあんなことがあった俺とセンスパの前でキスという言葉を使うのは、少しタイムリー過ぎたかもしれない。
「えっと・・・・・」
 俺が言葉に詰まっていると妹さんはにっこりと笑って
「ふふ、冗談ですよ〜。今、本気にしたでしょ?」
と言った。なんだ、冗談か、と安心しつつも俺は言葉で
「いや、本気になんてしてないよ・・・・・」
と妹さんの指摘を否定。しかし妹さんは
「うそうそ〜、絶対本気にしてる目でしたもん〜」
と少し前屈みな姿勢で俺の顔を見上げるように上目遣いをする。可愛い、この子は。俺の精神が揺らぎそうになる。それ以上揺らがないようにキープする精神力は持っているつもりではあるが。
 妹さんはさっと俺に背を向けると空を見上げながら誰に言うわけでもないような口調で呟くように言う。
「私だって彼氏欲しいんです。お兄ちゃんとは違って、異性関係に興味ありますもん。だけど、これだっていう人と出会えないんです。そういう人が私の周りにいないんです」
 そこまで言って言葉を句切るように妹さんは振り返り、俺の方を見た。軽い足取りでとてとてと俺の方に近寄ってくると、優しいその指で俺のことを指さしながら、こう言った。
「あなた以外に」
 心臓が一度だけ、大きく脈打った。
 存在するのは月明かりだけ。ロマンチック。そんな単語が、俺の頭の中で渦巻く。俺以外に、これだっていう人がいない。二度目の告白であるが、回数など関係なかろう。それに今は、前回のような二人きりという場面ではない。
「ほら、帰るぞ」
 向こうから声がしたと思うと、それはあの人だった。知らない間に、分かれ道のところまで来ていたようだ。俺の家はここから右、女史とあの人の家は左の道だ。
「あ、それじゃあ・・・・・」
 俺は向こうに歩いていく女史とあの人に手を振る。ちょうど良いタイミングだった、と思う。あのままの俺では、妹さんに何の返事をすることもできなかった。そうなれば、悲しむのは妹さん以外にいない。
「じゃあ、またね」
 センスパが妹さんに言った。妹さんも頷いて手を振る。俺も、妹さんに手を振る。
 妹さんは一度、あの人に着いていこうと歩いたがぴたりと立ち止まって振り返り、俺の方に向かってきた。
 何事かと首を傾げる俺に妹さんは少しだけ躊躇したような仕草をとったが、すぐにいつもの笑顔を見せると少しだけ背伸びをし、そして、俺の頬にその柔らかな唇を優しく当てた――
 驚く俺を差し置いて妹さんはすぐに唇を離すと
「今日はありがとうございました、それじゃあ、さよなら〜」
と手を振って、あの人の方へと駆けていった。
 状況を理解した俺は、手で頬を軽くさする。残っている感触を、自分の肌で確かめたかった。
 妹さん達が見えなくなるまで俺はその場に立っていた。センスパも、もちろんそうだ。俺の視界から三人が完全に消えたころ、センスパが思い出したかのように自然な口調で、俺に囁いた。
「・・・・・姉さんの、ハピマテのこと、もう引きずる必要はないと、私は思います」
 うっかりすると聞き流してしまいそうなその声は、コンタクトレンズのように軽く、しかし凸レンズのように通すものすべてを屈折させてしまいそうだった。
「センスパ・・・・・?それって、どういう・・・・・」
 しばらく放心状態に近かった俺だが我に返ってセンスパに尋ねる。
 ハピマテのことをもう引きずる必要はない、だって?そんなこと、今まで一度でもセンスパが口にしたことがあっただろうか。センスパは、ハピマテがまだ俺のことを想い続けているという事実を教えてくれたし、そんな自分の姉を応援するような姿勢を取っていたはずだ。
 しかし今、センスパの口から漏れた言葉。何の意図があるのか、まったく分からない。否、もしかしたら意図などないのかもしれない。
「あの・・・・・、センスパ・・・・・?」
 俺はもう一度、名前を呼ぶ。するとセンスパは、はっと現実に引き戻されたような仕草を取り、
「すみません、なんでもないんです」
と慌てて言ってから、
「さぁ、帰りましょう?夜も遅いです」
と続けた。
 確かにそうかもしれない、と俺は思う。
 ハピマテのことが忘れられず、他の異性と付き合う気にはなれずにいるのが、現在の俺だ。しかし、ハピマテはもう帰ってこない、そう、帰ってこないのである。いつまでも、現在の状況を続けていて良いわけがない。何処かで割り切ることが必要になってくるのは明白だ。そのタイミングが今であるということを、センスパは教えてくれたのかもしれない。
 俺はいつの間にか下を向いていた顔を上にあげ、一度だけ空の星を見てから自宅へと歩きだそうとしているセンスパの名前を呼んだ。
「なんですか?」
 センスパが振り返る。
「なぁ、もしも、もしもだけど――」
 センスパが俺の方を見ている。俺は「もしも」ということを強調した後に続けた。
「今、俺が寄り道しようって言ったら、どうする?」
「・・・・・え?」
 時刻は9時過ぎ。人間で表すと中学生ほどのセンスパには、血縁のない同年代の男と二人で“寄り道”するには些か非常識な時刻だ。それは承知だ。と、いうより、非常識なことを、今の俺はセンスパに伝えようとしていた。
 いや、と呟いてから俺は言葉を継ぐ。
「寄り道する必要もないんだ。家に帰っても、親はずっと一階にいる。俺の部屋は二階だ。多少の物音には気付かれない――」
 自分の表情が、意志とは独立した動きを見せたことが分かった。
「――そうさ、夜も遅いんだ」
 俺は笑っているのだと思う。きっと、うつろな目で微笑んでいるはずだ。その顔を鏡で見たら、自分で恐怖するかもしれない。
 無言のセンスパを、俺はただじっと見つめた。
 センスパも、無言の俺を見つめ返してくる。
「――そう言ったら、どうする?」
 俺は再度返答を求める。その顔は、もう笑ってはいない。
 センスパは震える唇を開き、声を出した。
「・・・・・お断りします」
「・・・・・そっか」
 それきりで、会話は終了した。センスパは先ほどの元気が嘘のように黙り込んでしまったし、俺もずっと黙っていた。
 無言のまま、家路をゆっくりと歩いた。
 星だけが空に輝いていた。


 帰宅後、センスパは俺とあまり話をせずに風呂に入り、そのまま布団を被って寝てしまった。俺もセンスパの睡眠の邪魔をしない程度に勉強をした後、布団に入る。
 ふと気が付いて自分の携帯を見た。
 予感的中というべきか、ディスプレイには「新着メッセージ1件」の文字が浮かんでいた。俺は手慣れた操作をして、メールボックスを確認。あいつからのメールだった。
 花鳥風月から招待状が来たんだが、お前にも来てるよな?――と、そんな内容だ。メールの最後には、あの娘にも招待状が来ていたのでお前にメールしてみた、というような事柄も加えられていた。
 時間が少し気になったが、まだあいつが寝ているような時間ではない。俺は、自分とあの人にも招待状が来ていることをあいつに報告する。
 センスパが横で静かな寝息を立てていた。


 その後、俺はあいつと何度かメールを交換した。
 そして次に日曜日に開催される花鳥風月のライブ。それにあいつと一緒に行く約束をした。あの娘、そしてあの人ももちろん同行であるから、久しぶりにそのメンバーで花鳥風月に会いに行くことになる。アメリカに行ってしまった彼女がいないのは、仕方ないだろう。
 ――彼女とはもう会えないのだろうか
 俺の脳裏にそんな不安がよぎった。彼女は、俺と何となく気まずいような関係のまま、アメリカに行ってしまった。となると、もう会えないのかもしれない。後悔が尽きないが、彼女の方がそう考えているのだ。俺にどうにかできることではない。
 そして、翌日。つまらない学校の授業を終え、俺は早く自転車を取って帰ろうと、自転車置き場に向かった。今日は水曜日、アニメ『ネギま!?』の放映日だ。
 自転車置き場には既に二人の人がいた。
 俺が特に気にすることなく中へ入ろうとした時、
「あ、あの、好きです・・・・・・、付き合ってください・・・・・」
という女の子の声が、自転車置き場に響いた。
 どうやら俺には気付いていないようだ。俺は慌てて木陰に隠れる。こういう場合、それが最善策であることは経験済みだった。
 すると今度は男の方が返答をした。俺はその声を聞いて驚いた。
「・・・・・ごめん」
 あの人の声だった。
 しかしよく考えてみると驚くことでもない。あの人はイケメンなので学校の女子からモテモテだ。自転車置き場という人の入りが多い場所ではあるが、告白されていても不思議ではない。
 だが、俺はあの人が続けた次の言葉に驚愕した。
「他にいるんだ。先客が」
 ・・・・・・なんだって?
 先客、というのは、恋人の先客がいるということだろう。あの人は三次元には興味がないはずだ。だが先客ということは、もう付き合っている彼女がいる、ということだろうか?
 そう考えているうちに、女の子が小走りに走っていった。たしか、隣のクラスの子だ、と俺は思い返す。
 次に少ししてから何喰わぬ顔であの人が出てきた。俺は木陰から飛び出し、あの人に話しかける。
「あの、今のは・・・・・」
「あれ、しまったな、見られてたのか・・・・・」
 あの人は人差し指で額をぽりぽりと掻く。
「他の先客って、誰?」
 俺の率直な問いにあの人は
「逃げ口実・・・・・、じゃ、通用しないようだね」
と言ってから苦笑すると
「女史だよ。向こうから僕にアプローチを仕掛けている。少なくとも今、告白してきた女の子より先にね。だから、先客だ」
と答えた。
 俺はすぐに自分の自転車と取ってきて、あの人と並んで帰った。
 帰り道を走る間、俺は、あの人が女史のことを「先客」と呼んだことをずっと考えていた。
 僅かだとしてもあの人は女史のことを“女”として見ているということだ。三次元にしか興味がないと言っていたあの人も、こうやって彼女を作ろうとしている。
 そのことに俺は少しだけ、ほんの少しだけ驚いていた。そして、自分の今立たされている状況を振り返った。昨日、センスパが言った言葉も含めて、振り返っていた。


 家に帰ってアニメを見終えた俺はコンピュータの電源を入れる。それと同時に、隣でセンスパが自分のノートパソコンを立ち上げた。
 そして数分後、センスパが声をあげた。
「VIPにスレが立ってます」
「え?ホントに?」
「ほら、ここに・・・・・、今、スカイプでアドレス送りますね」
 すぐにセンスパからメッセージが飛んできた。俺はそのアドレスをそのままLive2chに打ち込み、VIP板にあるそのスレを閲覧した。
 センスパを1位にしよう、というそのスレはアニメが終わった直後に立てられたもののようだった。
 俺も、今回の祭りは自分でスレを立てずとも自然とVIPにスレを立てる流れになるものだと思っていたので、そこまでは予想通りだった。しかし――
「こりゃあ・・・・・」
「・・・・・」
 俺とセンスパは共に黙り込んでしまった。そのスレの流れは、一言で表現すると最悪だった。
 アンチの多さはある程度覚悟していたが、これほどとは思わなかった。スレの最初の方での反対意見が、そのまま後まで引きずられてしまっている。正論も、完全にスルー状態。
 黙ってログをスクロールしながら見ていたセンスパが言った。否、声を漏らしたと言った方が正確だろうか。
「・・・・・私、1位になれるのでしょうか」
 俺はセンスパの方をみて、
「大丈夫」
と言う。しかしそれも、呟きにすぎなかったかもしれない。



 ――日曜日。
 俺とあの人は昼過ぎ、1時ころに駅前に向かった。
 そこには既に二人の影があった。
「おい、おっせーぞ!」
 そう言いつつも笑顔のあいつと、その横で手を振っているあの娘。俺とあの人は軽く片手をあげて挨拶に代える。
「じゃあ行こうか。場所は――」
「大丈夫、俺が分かってるから」
 俺は安心してあいつに着いていく。駅の近くにあるその学校。花鳥風月の5人が通学している高校。現在、そこでは文化祭が盛大に開催中である。
 校門近くまで歩いてくるとそこはもうさながら祭りであった(文化“祭”ではあるのだが・・・・・)。
 赤、白、黄・・・・・、様々な色があふれ、飛び交う。ピエロやリーゼント風の仮装をした集団がビラ配りをしている。かつて敵だった連中が通っている高校だと分かっていても、笑顔がこぼれるような雰囲気だった。
「招待状によるとライブは夕方からだ」
 あいつは自分の腕時計と招待状に付属されていたパンフレットを交互に見ながら言う。
「それまで学校の中を回ってようぜ。せっかく他校の文化祭に中学のころのメンバーで来たんだ。楽しもうじゃないか」
 人が余りいないスペースを見つけ、俺達はパンフレットを改めて広げた。昼時だったためどのコーナーも混んでいると思われたが、しかたない。昼食を取った後なので本格的な飲食コーナーに興味はない。
「これなんか、どうかな」
 珍しくあの人がそう言って、一箇所を指さした。『カフェ 3-B』というネーミングセンスの欠片もないような喫茶店だったが、このメンバーで飲み物を飲みながら話をするにはちょうど良さそうだった。場所も今、俺達がいる校舎の中にあった。


 喫茶店の中で一息ついた俺達はまず、花鳥風月がライブに招待してきたことについて軽い議論を交わした。
 初めのうちは先日の不良が中にいないかと若干不安だった俺だが、よく考えてみると不良ぶっている奴らが文化祭なんかに参加するはずがないと考え直し、陰ながら胸をなで下ろす。
「ところでセンスパについてだけどよ――」
 あいつがコーヒーに口を付け、全員を見回してから言った。俺は少しギクリとするが、あいつがいう“センスパ”はCDのことだと理解し直す。
「水曜日、VIPにスレが立った」
 あの人がコーヒーをすする。あの人のようなルックスで足を組んでコーヒーを飲んでいると、とても絵になる。
「ああ、それは俺も見た・・・・・」
 あいつのしゃべり方が、沈む。その理由は明白だった。
「もう、VIPには頼れないと考えた方がいい」
 あの人の口調には全く変化が見られない。見られないが、俺にはその声が少しだけ震えて聞こえた。あの人は顔の色一つ変えずに続けた。
「もう2ちゃんねる外のネット各所で何とかするしかないんだ。・・・・・今回の祭りは僕にも少しだけ思い入れがあってね」
 そう言ってからあの人は俺の方を見て、少しだけ微笑んだ。俺は意味もなく微笑み返していた。


 4時になり、俺達はパンフレットの見取り図を見ながら俺達はライブ会場であるB校庭に向かった。校舎の陰に隠れている校庭であったが、人の収容面積は十分だった。
 B校庭の周りは熱気に包まれていた。激しいビート音が鳴り響き、さながら本物のライブ会場だ。
 長蛇の列が受付前に出来ており俺達が入れるかどうか心配だったが、あの人を先頭に4人で招待券を見せると、なんと顔パスで並ばずに入場することができた。花鳥風月が送ってきたのは、それほどのチケットだったようだ。
 この高校は学生バンドが盛んなようでオーディションを勝ち抜いたバンドが文化祭のステージに上がっている。花鳥風月は一年生であるが、この文化祭ライブのトリを勤めるのだというから驚きだ。
 入場と同時にちょうど前のバンドの演奏が終わった。会場の熱気が若干低下し、ざわめきが上がる。
 が、そのざわめきも一瞬にして吹き飛んだ。暗くなったステージが、熱を発生させるほどのライトで明るくなったかと思うと、そこには5人の影が整列していたからだ。
 女子生徒からの奇声に近い歓声が上がる。客席の中で顔をしかめるか、平常の表情かをしていたのは、俺達4人だけだったのではないか。
 中学のころとまったく変わっていない5人組、花鳥風月がそこにいた。
 ――連中のライブは一段の盛り上がりを見せた。歌のクオリティも中学のころとは比にならないほど上がっている。歌っている曲は様々なJ-POPアーティストのものであり、中学のころに専門で演奏していたORANGE ERANGEのカヴァー曲は一曲も流れていない。それだけのはずなのだ。だが、なんだろう。この妙に引っかかる感覚は・・・・・
「なぁ!」
 歓声に声をかき消されないように、あいつも大声で俺達に話しかけてくる。
「確かに中学に比べたら、あの野郎共、腕をあげてる。それは認めるさ。・・・・・でも、この程度かよ。俺らに招待状を送りつけておいて、これか?」
 あいつの話はもっともだった。これなら、俺達をわざわざ呼ぶ必要はなかったはずだ。俺達がいても何の意味もなさない。それなのに奴らは何故、俺達に特別な招待状などを送ってきたのだろう・・・・・
 お粗末なトークが終わり、曲は4曲目に入った。
 そして、俺はそこで気付いた。
 俺は横に立っているあの人を見る。あの人は腕組みをしたまま俺の方を見て、無表情で口を開いた。
「君も気付いたみたいだね」
 俺は頷く。あの人も相槌を打つように頷いて、続けた。
「一見普通のアーティストのJ-POPをコピーしているバンドだ。だけど今まで流れた3曲、そして今流れている曲も全て――」
 楽器の音が一瞬だけ大きくなり、あの人の声が消し飛ばされる。あの人は改めて、声を出した。
「――全て、何らかのアニメ主題歌だ」


 その後、2曲ほどの演奏を終え(その2曲も一般アーティストのアニメソングだった)、連中は息をあげながらトークに入り、そして叫ぶ。
「いよいよ次で、最後の曲になりました!」
 会場からの反対の声。しかし花鳥風月は続ける。
「最後は生まれ変わった俺達が見せる、究極の音楽です!」
 一度、奴は息を大きく吸った。
「――原曲、平野綾で『God knows…』!」
 ・・・・・なんだって?
 予想もしていなかった花鳥風月の選曲に完全に意表を突かれた俺達は、ただ唖然とすることしか出来なかった。
 何事もなかったかのように連中の演奏が始まる。他の客も、もちろんこの曲を知っている人はいないようで始めは動揺しているようだがすぐに乗りを取り戻し、知らない曲なりに盛り上がっているようだった。
「・・・・・まぁ、この曲は一般受けするアニソンだからね」
 演奏が終わって弾けるような拍手と声援が飛ぶ中、あの人が俺の方を見て言った。冷静な台詞だが、その顔は驚きを隠せない。
 奴らが涼宮ハルヒなんていう深夜アニメを知っているということがまず驚きだったし、それ以上にアニソンをあれほど嫌っていた花鳥風月が、ライブを全てアニソンで埋めてしまうことが驚愕的だ。俺達を招待した理由が、それだったことは間違いない。俺達に対する報復なのか共感なのか、それは分からないが。
「アンコール!」
のかけ声が周りから上がり、やがて渦となってこのB校庭を取り巻く。俺達を含めた全員が、アンコールの声に合わせて手拍子をしていた。隣にいるあの人までもが、いかにも自然だというように手を叩いていた。
 一端舞台裏に引っ込んでいった花鳥風月がタイミングを見計らったかのようにまた登場してきた。客席の盛り上がりが最高潮に達した。
 奴らがマイクを取って息を大きく吸ったかと思うと
「それではアンコールにお答えします!」
の声がスピーカーから鳴り響く。
「アンコール曲は、俺達花鳥風月の永遠のライバルに送る、スペシャルメドレー!」
 その言葉がスピーカーから客席に響いた瞬間、俺達4人全員が反応を見せた。俺達は今の言葉が、自分達宛ものだと確信していた。
 一度照明が落ち、観客のペンライトだけが不気味に光る。小さな前奏ビートから、爆音へ。刻む鼓動――
 奴らの前奏が始まった瞬間、俺の脳細胞の動きが一瞬停止したかに思われた。
 口がふさがらない俺より先にあいつが言う。
「これって・・・・・、ハレ晴レユカイだよな?」
 ――まさに俺が言いたいことを、そのまま発言してくれた。
 聞き覚えのあるメロディーは、今年流行したハレ晴レユカイそのものだ。そしてステージ上で花鳥風月の連中が踊っているダンスにも、見覚えがある。
 客席の反応は上々だった。結局、奴らが踊って歌えばなんでも良いのかもしれない。
 ――そして、俺達の驚きは連鎖する。
 メドレーということで、一番のみの演奏を終えたところでハレ晴レユカイは終了、続けて次の曲が始まったのだが、その曲はさらに俺の耳に馴染んだ。
 ハッピーマテリアル。聞き間違えるはずもないその曲が、花鳥風月の楽器から奏でられた。
「馬鹿な・・・・・」
 あの人が呟いた。観客の盛り上がりは変わらない。逆に、ヒートアップしてきたような気がする。曲自体がロック調にアレンジされておりアニメ色はほとんどないが、原型を全くとどめないというわけではない。とても良くできたアレンジだった。
 ――盛り上がりを保ったまま、メドレーは三曲目に突入する。
 もうここまで来ると何も驚かない。スピーカーから奏でられる音楽。ロック調のその曲は、俺の心に強く響いた。
 1000%SPARKING。それが、その曲のタイトルだ。


 ――ライブが完全に終わった。完全燃焼。それが今、一番似合う言葉であろう。
「やってくれたな・・・・・」
 あいつが呟くように言うのが、俺の耳に入った。あの人が
「ああ・・・・・、完全にしてやられた・・・・・」
と答える。
 次の瞬間、爆発する拍手と歓声に、俺達の会話はかき消された。俺達も素直に手を叩く。今日は、観客だった俺達が意表を突かれた。完全に、負けた。
「今日は、お客さんの一人に伝えたいことがあります」
 ステージ上の花鳥風月の一人が、マイクを持つ。どうやら最後のMCのようだ。客席のざわめきが静まりかえる。
 そして、俺は目が痛くなるほどの光りを向けられた。否、光りが向けられた対象は俺ではない。俺のすぐ側に立っていたあの娘に、全てのスポットライトが向けられていた。
「・・・・・私?」
 あの娘はまぶしそうに目を細めた後に呟いた。
 花鳥風月の一人はあの娘にスポットライトが当たったことを確認すると一度、スピーカーを通して客席にも分かるくらいの深呼吸をしてから、言った。
「――中学のころから、好きでした!俺と、付き合ってくださーい!!」
 ――あの娘に向けられた、告白だった。
 あの娘が少し後ずさりするように驚いた。それもそうだ。客席全員の女が、こちらを見ているのだから。
 がしかし、その後すぐにあの娘はステージの方をまっすぐ見据えて、いっぱいに空気を吸い込むと手でメガホンを作って、叫んだ。
「ごめんなさーい!!」
 この上ないくらいの笑顔だった。
 あの娘はそう言った後、見せびらかすように隣にいたあいつに抱きつく。少したじろぐあいつに目もくれず、
「私、もう彼がいるので!」
 会場から笑い声と溜息と、そしてブーイングが漏れるが、あの娘はそれくらいで気にするような人間ではないのだ。
 それに比べて、照れ気味のあいつがその雰囲気をよく表現していた。



「よう、お疲れ」
 ライブが完全に終わった後、メンバーの控え室になっている教室に俺達は立ち寄った。
「なんだ、お前らか」
 教室の隅の方でタオルを使って汗を拭いていた花鳥風月は、俺達の方をちらりと見る。
「びっくりさせられたみたいで、何よりだ」
 連中は俺達に改めて向き直ると、こちら側の質問を予測していたように話を始めた。
「俺達も改心したってことだよ。完全にアニオタに落ちぶれたわけじゃないがな」
「とにかく、1000%SPARKINGは買ってやる。それだけだ」
 その言葉に俺の顔に笑みが浮かぶ。
 メンバーの一人、さっきあの娘に告白した男が冗談めかした口調で
「やっぱ付き合ってくんない?」
と尋ねる。しかしあの娘側も
「しつこい男は嫌いよ」
と冗談めかした返答をした。二人とも、笑顔だ。
「飲む?」
 俺は缶ジュースを差し出した。もちろん、もともと差し入れとして持ってきたものだ。
 だが、奴らはそれを受け取らなかった。
「悪いな、お前らと手を組むつもりはない。これからは、敵じゃなくライバルだがな」
 そう言って鼻で笑われてしまった。だが、それさえも微笑ましい。今回のライブは、様々な意味で最高だった。どういう意味で最高かというとつまり、ライバルという言葉を聞けたというところだ。
 中学生並の思考だが、その局面に立たされれば何かが奮い立たされる。それが、俺達と花鳥風月の存在なのだと自覚する。自負する。そして、自認する。
 あいつが言う。笑顔で。
「じゃあ、俺達はお前達をライバルとは思わない。何故かって言うと、ライバルっていうのは口先だけで認め合っちゃいけないからだ。分かるな?」
 その言葉は重かった。重かったが、頭の中にするりと入ってくる軽さが、中には含まれていた。



              (48話から54話まで掲載)