「郵便でーす」
 花鳥風月のライブから一週間後の日曜日。俺は一階の方から聞こえるその声とインターホンの音で目を覚ました。
 時計を見ると午前8時。起きあがってもう一つあるベッドの方を見る。いつも早起きのセンスパが珍しくまだ眠っていた。
 俺は手近にあったパーカーを羽織り、急いで一階に降りていく。
「お待たせしました・・・・・」
 そう言って玄関のドアを開け、郵便配達員を招き入れた。俺は小包を受け取る。
「速達ではなかったのですが、国際便なので直接お渡ししておきますね」
 配達員はそう言って笑顔を見せた。営業スマイルだろう。
「ありがとうございます」
 こちらも形式に反った挨拶をすると、配達員の男は自分の帽子をちょいとあげて会釈するとバイクに乗って去っていった。
 国際便。確かさきほどの男はそう言った。小包の宛名の部分を見ると確かに二種類の書き方をされていた。つまり日本語と英語だ。JAPANという文字に下線が引いてあるその書き方は、明かに国際便だ。
 俺はそれを持って二階に上がる。宛名には俺の名前が記載されていた。俺は海外に友人を持った覚えがない。否、一人だけ、いた。
 アメリカへ行ってしまった中学時代の友人。友人と表すのも少し気が引けるのだが。
 自分の部屋のドアを開けてから、俺は小包の裏側をちらりと見た。
 やはり、そうだった。
 そこには中学時代に付き合った経験がある、彼女の名前が記されていた。
「あれ、私・・・・・、寝坊しちゃった・・・・・」
 センスパが眠そうな目を擦りながら身を起こした。
「休みの日に8時起きだったら寝坊じゃないよ」
 俺はセンスパの方を見ずにそう行った。もちろん視線は、小包に向けられているのだ。
「郵便ですか?貴方宛に?」
「うん、そう」
「誰からですか?」
アメリカに引っ越した友達・・・・・」
 俺ははさみを探して小包の封を開ける。そんな俺の様子を見ながらセンスパは
「もしかして、前に付き合っていた方ですか?」
と尋ねてきた。俺はそれに無言で頷いた。無言になったのは、封を開けることに集中していたからだ。
 一番始めに出てきたのは小さな絵はがきだった。目を見張るような大自然の写真がプリントされている。説明文が英語で書いてある。俺が持っている語学力の総力を結集させて読んでみたところ、アメリカの某州にある自然のようだ。
 前略、と始まるその文面は、当然ながら全て日本語だ。俺はほっと胸をなで下ろしながら、それに目を通す。
  ――前略、お元気ですか?しばらく手紙を出すこともできずにいて、すみません。私は元気に過ごしています。こちらの生活にも、慣れてきました。はがきの写真は私の住んでいる州にある場所です。綺麗でしょう?
 彼女らしい丁寧な文面は、俺の顔に自然な笑みを産む。センスパが横にすり寄るように近づいてきたので、俺はセンスパにもそのハガキを見せる。
  ――こちらの学校の授業でセーターを作ったので送ってみました。サイズが合うと良いけど、もし合わなかったらごめんなさい。
 小包の中に入っていたセーターを俺は取り出した。淡いブルーの優しい色をしたそれは、俺の身体にぴったり合っていた。
  ――今の日本ではどんなことが流行しているのだろう、と考えるのが楽しいです。こちらは比較的温暖な気候なので、その点では戸惑うことはありませんでした。英語もこちらに来てから大分覚えました。
 もともと彼女は頭が良かった。中学ではあの人に継いでナンバー2を三年間守り抜いたほどだ。語学の点では困ることは何もなかったのだろう。
 その後にもアメリカでの生活の様子が綺麗な文章で綴られていた。そして最後に、こう締めくくられてた。
  ――今度、そちらの時間の11月5日の日曜日に日本に一時帰国します。そちらにも寄るので、よろしくね
 そして英語での署名。俺はその部分だけを、3回繰り返して読んだ。
 読んでから、一度溜息をつく。もちろん、感動の溜息だ。
「――いつ帰ってくるかは書かれていませんね」
 センスパの言葉に俺は頷いた。
「この近くに空港がありますよね。帰ってくるのはそこでしょうから、ネットで調べれば何時何分着の便で帰ってくるか、分かると思います」
 センスパの仕事は早い。既にノートパソコンの電源を入れている。
 俺はセンスパに、その絵はがきに書かれていた州の名前を伝える。キーボードを叩く音が心地よい。少ししてからセンスパが口を開く。
「その日に向こうの空港を出て、こちらの空港に到着する便は一つしかありませんね。11月5日14時33分着の便です」
 機械的なその言葉だったが、暖かみが籠もっていた。少なくとも俺はそう感じた。
 俺はまず、そのことをあいつにメールで知らせる。あいつからの返信はすぐに来た。迎えに行こう。それだけの内容だった。
「私も一緒に空港に行きたいです」
 そう言ってすがるような目をするセンスパに、俺は笑顔を向けた。
「OK」
 今なら、大抵のことは許してしまいそうな気分だった。


 それから、あっという間に一週間が経った。彼女がアメリカから帰ってくる日を前日に控えた土曜日。休日だというのに珍しく早起きした俺は、ある程度そわそわしつつも適度に平静を保っていた。
 その日、朝食を食べ終えるとセンスパがすごすごと俺の方にすがり寄ってきた。どことなく子猫を連想させるその動きは、なんとも言えず愛らしい。
「あの、実はこの前に新しい服を自分で選んで買ったんですけど・・・・・、見てくれますか?」
 いつの間にそんな買い物をしたのだろうと思いつつも俺は頷いて
「いいよ」
と返事をする。
 俺の返事を聞いてから安堵したような表情を見せた後、とたとたと階段をのぼって俺の部屋に入っていったセンスパは数分後、かちゃりと静かな音を立ててドアを少しだけ開けると、二階から俺を手招きした。
 俺も階段をのぼり、部屋に入る。そこに立っていたセンスパは、まるで別人のような風貌をしていた。つまり、いつもに増して可愛かったのは言うまでもないが、可愛い、のジャンルが違ったのだ。
 いつものTシャツの上に申し訳程度にフリルがついた、ライムに近いパーカーを羽織り、下半身にはチェック柄のミニスカート。今まで、あまり露出を好まない格好をしていたセンスパが着ていると新鮮な印象を持つようなファッションスタイルだった。
「どうですか?」
 少し上目遣いのセンスパが尋ねてくる。俺は少しだけ微笑んだ。
「うん、似合ってるよ」
「本当ですか?」
「うん」
 センスパは少し照れながらも足を使ってくるりと一回転した。スカートが捲れ上がりそうになる。際どい。そうしてからセンスパは、恥じらいを残しつつも続けて尋ねた。
「じゃあ・・・・・、可愛いって、思いますか?」
 センスパにしては大胆な発言だったと思う。俺はそのことに驚いたが、今度はにっこりと笑顔を作った。
「うん、可愛いよ」
 紅潮していたセンスパの頬が、ますます赤くなった。冷静な言葉とは裏腹に表情は冷静を保てていない。
 センスパはその後少し、躊躇を重ねていた。しかしふとしたタイミングで何か決意をしたような表情を見せ、その後に俺の方をまっすぐ見据え、そして言った。
「じゃあ、その・・・・・、これから一緒にデートしてくれますか?」


「美味しい?」
「はい、美味しいです」
 隣に座ってクレープを頬張るセンスパの姿を、俺は街中のベンチで眺めている。
 センスパがデートと言い出した時は少しドキリとしたが、休日の街に二人でやってくるだけ。いやらしいことは、もちろん何もない。何もないからこそ、満天の笑みでクレープを食べているセンスパの姿を見て、俺は癒されることができるわけだ。
 何をしたかというと、実際は何もしていない。雑貨店で冷やかしをしたりカフェでクリームパフェを食べたり(センスパの希望で二人で1つのものを)、それから最近流行の出店でクレープを食べている。それだけの、いたって日常的なデートだ。
 俺の経験上、こういう時は誰か知り合いと会う展開が多いのだが、今日はまだそれはなかった。ないに越したことはないので、特に文句もない。
「あそこ、入りましょう」
 クレープを食べ終えたセンスパが指さしたのはゲームセンターだった。何かのゲームに興味があるのだろうか、と思いながら俺はセンスパに手を引かれ、その中へと入った。
 目的のものがあるらしく、センスパは周りをきょろきょろと見回す。俺はあまり、ゲームセンターの騒音が好きではない。一つのゲームに集中すれば周りの音が聞こえなくなるのだろうが、ただ徘徊しているだけのときは、沢山のゲームの操作音が混ざってたまらなく耳障りだ。
「あ!あれです!」
 騒音に負けないようにセンスパも珍しく大声を出し、さらに俺を引っ張る。センスパの手が柔らかい。
「これ、撮りましょう」
 そう言ってセンスパが指さしたのは、プリクラマシンだった。最近のプリクラがハイテクになったことは、前に妹さんと遊園地に行った時に知っていた。
「ね?」
 そう言ってセンスパは俺の方に振り返って首を傾け、笑顔を作る。なんだろう、今日のセンスパはとても女性的で、魅力的だ。
「うん、いいよ」
 俺がそう言うとセンスパはいち早くカーテンをくぐって中に入った。俺もそれに続く。
 コインを入れてマシンを起動。好みの枠などを選び、やっと撮影画面に入った。そこまでの道のりが長い。ボタンを押すと機械がカウントダウンを始めた。
 そしてそのカウントが1になった時、俺の横でピースサインを出していたセンスパは首を軽く横に傾けた。その小柄な顔が俺の肩に乗る。センスパの顔が近い。良い匂いがする・・・・・
 フラッシュが光る。画面には優しく微笑んでいるセンスパと、それに少し驚き気味の俺の顔が写った。


 俺とセンスパが家路につくころには、空はすっかり赤く染まっていた。日が落ちるのも早くなってきたと思いつつ、完全に暗くならないうちに家に着くために俺は歩を早める。
「楽しかったですね」
「うん・・・・・」
 にっこりと笑顔を作っているセンスパの問いに俺はそう答えた。そう答えたものの、少しだけ疑問が残っていた。本当に、少しだけなのだが。
「あのさ、センスパ」
 俺は立ち止まって、センスパの方を向いて、続けた。
「どうか、したの?」
「え?」
 センスパが不思議そうな顔をするのは、無理もない。俺の唐突な問いが悪かったことは重々承知だ。
「いや、いつもと違うなぁ、と思って・・・・・」
 俺は思ったことを素直に表現して、問いに補足した。これでやっと意味をなす質問になってきた、という具合か。
 センスパは立ち止まって笑顔のまま俺の方を見つめ返す。
「何も、ありませんよ?」
 そうは言ったが、といった様子でセンスパは一瞬だけ暗い表情を見せた。だがその表情のすぐに消える。笑顔がまた舞い戻ってくる。
「ただ――」
 小さく開く、センスパの口。そこから漏れる少量の音。
「――貴方とこうして過ごせるのも、もうないかな、って・・・・・」
 重みがあった。その言葉には、重みがあると俺は感じた。
「だって明日はアメリカから女の人が帰ってきますよね。貴方もその彼女と会ったりするでしょうし、再開できるのを楽しみにしているでしょう?」
 センスパの不動だった表情が、徐々に崩れていく。
「知っている通り、私はオリコンの順位が発表されたら物の世界に帰る必要があります。姉さんと同じ、ということです。」
 センスパの話を俺はじっと、無言で聞く。だんだんその声が震え始めるのが分かる。
「だから・・・・・、だから、今日は貴方と出来るだけ楽しもうって思ってたんです」
 そこでセンスパは黙り込んでしまった。その後、沈黙。
 沈黙をうち破ることになったのは、センスパだった。すすり泣くような、涙を堪えているが堪えきれないような、そんな泣き声が、その沈黙を破った。
「あれ?なんで私、泣いてるんだろう・・・・・。楽しいのに、今はとっても・・・・・」
 センスパは自分の目からこぼれ落ちる涙を拭おうとしない。その代わりに俺が、その背中をさすってあげる。
「センスパ・・・・・」
「ごめんなさい・・・・・、なんだろう、私・・・・・」
 自分の涙の意味も分からずに涙を流しているセンスパに、俺は
「大丈夫、大丈夫だよ」
と声を掛ける。
「お前が物の世界に帰るまで、まだ時間はある。それに――」
 第三者が誰もいない路地。夕焼け空を背景に、俺はセンスパを抱き寄せた。俺の胸に顔を埋めて泣くセンスパ。
「――それに、俺はお前のことをずっと忘れない」
 俺のその言葉にセンスパは、声を途切らせながら
「あり・・・・・、がとう、ございます・・・・・・」
と言った。そのセンスパは、今まで見たなかで一番可愛い。その時、俺がそう思ったのは、紛れもない事実だ。



 翌日の日曜日。昼ごろに俺とセンスパは電車を使って空港まで言った。目的はもちろん、彼女のお迎えだ。
 集まったのは俺、センスパの他に、あいつ、あの娘、あの人、そして妹さんの4人である。全員が集まってから30分後、館内アナウンスが鳴って飛行機の到着が知らされた。
 俺達全員の視線が、改札に集められる。そこから大勢の人が歩いてきた。大半は日本人だが、外国人も勿論いる。
 その中の一人の女の子が、俺達の方をちらりと見た。
「え――」
 俺が声もまともに出せなくなったのは、ある意味正常な反応だったと思う。中学卒業のとき以来、彼女とは会っていなかったために久しぶりに再開となったのだが、ここまで彼女が変わっているとは思っていなかった。
 否、彼女の本質は何一つとして変わっていない。変わったというより、成長した、というのが適切な表現だろう。
 彼女は俺達を見つけ、一度目を大きく開けてから、こちらに向かって小走りに駆けてきた。俺達のところまで来てから、彼女は口を開いた。
「あ、あれ、来てくれたんだ――」
 絶世の美女が、そこにいた。
「はぁ・・・・・、綺麗になったな・・・・・」
 あいつがぼそりと呟く。その呟きに、俺も強く同意する。数ヶ月前までの彼女より、あらゆる意味で一回り成長していた。成長しているのだが、それぞれの顔のパーツや、少しシャイなその仕草は変わっていない。女として磨きが掛かった。そんな感じだった。
 これは後から聞いた話だが、この時、妹さんはあの人から「お前がまだ彼のことを狙っているんだったら、諦めた方がいい。彼女とお前じゃあ、勝負にならない」と言われたのだそうだ。(この場合の“彼”というのは、俺、ということになる)。三次元に興味なしのあの人でさえこの絶賛だ、と言えば、彼女の凄さが分かって貰えるだろうか。
「ほら、お前もなんか言えよ」
 あいつに肩を叩かれ、俺は彼女の方を見る。見つめるだけで自分が恥ずかしくなる。そんなオーラを、彼女は身にまとっていた。
「あ、えっと・・・・・、久しぶり」
 ぎこちなく俺が言うと、彼女も少し照れた感じで
「う、うん、久しぶり――」
と返す。あいつがにやにやしながら俺を見ているのは、気にしないことにしよう。
「本当に久しぶりだ」
「いやぁ、凄く綺麗な女の子になったわね・・・・・、アメリカで何かあったの?」
 あの人とあの娘が、口々に言った。あの娘の言葉に対し、
「そんな・・・・・、何も変わってないよ――」
と彼女は謙遜をしてから、ふと他の人物に目をやった。妹さんとセンスパがそこに立っている。
「えっと・・・・・」
 考えてみると彼女は妹さんとセンスパとは初対面だ。少し不思議そうな顔をしている彼女に妹さんが
「私は初めましてですね〜。えっと、私はこの人の妹です」
と、あの人のことを指さしながら自己紹介する。あの人にこんな可愛らしい妹がいることを知った彼女が、俺やあいつ、あの娘と全く同じ驚き方をしたのは、言うまでもないだろう。
「私も初めまして。あの・・・・・」
 センスパも挨拶をするが、なんと自己紹介をしたら良いか分からないようだ。そこは俺がすかさずに
「この子は俺の親戚の子なんだ」
とフォローを入れる。
「初めまして、よろしくね」
 二人を見て彼女はそう言うと、ふっと微笑んだ。その微笑みに、俺はどきっとする。全ての男を魅了する微笑みだ。そう思った。


 彼女は俺とあの人が通学している高校の隣町にあるホテルに宿泊するそうなので、俺達は全員で電車を使い、そこまで移動する。電車内は比較的混雑しており(休日のため当たり前なのだが)、空席は2つしか見つからなかったのでここは年下のセンスパと妹さんにその席を譲り、他の高校生5人組は吊革に捕まっての移動となった。5人組、と呼ぶことができるのも、大分久しぶりだ。
「何日、こっちにいるの?」
 俺は隣に立っている彼女に尋ねる。
「一週間だけ。12日の便で向こうに帰るから――」
「それなら、ゆっくりできるね」
「うん、久しぶりの日本でいろいろ楽しみたいし――」
 そう言う彼女を見て、俺の顔に微笑みが浮かんだ。
 その微笑みと真逆の笑い方をしているのが、向かい側にあの娘とあの人を引き連れて立っている、あいつである。俺と彼女の方を見てにやにや笑っているあいつに、俺は声を掛ける。
「・・・・・なんだよ?」
「いやいや、お熱いなぁと思いまして・・・・・」
 あいつの返答で気が付いたが、いつのまに彼女と二人で話し込んでいた。だが、俺と彼女はもうそういう関係ではないのだ。それは一番俺が承知している。勿論、今の彼女を見れば元の関係に戻りたい、という気持ちがないわけではない。しかし、もう過去のことなのだ。仕方がない。
 一方、センスパと妹さんは小さくなって席に座り込んでいる。二人とも、何も話す様子はない。だがしかし、今の俺にはその二人の様子に気付くこともできなかった。久しぶりの彼女との再開で、俺の感情は高ぶっていた。


 吊革に掴まって電車に揺られること数十分。既に5〜6個の駅を通過しただろうか。正確な数字は覚えていない。
 その間、会話をしているうちに、ずっと俺の隣で共に立っていた彼女の様子がおかしくなってきた。
「大丈夫?なんか顔色悪いけど・・・・・」
「うん・・・・・、大丈夫・・・・・」
 俺の問いに彼女はそう答えたが、どう見ても具合が悪そうだ。息づかいも荒い。向かい側に立っていたあいつ達もそれに気付いたようで、彼女の様子をしきりにうかがっていた。
 ――と、その時。彼女はふっと目を閉じて、足で立つという運動を失い、倒れ込んだ。身体から力が抜けてしまったように見えた。支えるものが何もなかったら床に激突、というところだったが、幸いなことに彼女の倒れる身体を支えるものが、そこにあった。つまりは、俺の身体そのものである。
 倒れ込んだ先に俺がいたため、とっさに俺は彼女を両手で包むように支えた。結果的に、彼女は俺に体重を預け、二人の身体は密着するような状況になった。
「え、ちょ・・・・・、大丈夫?」
 俺は彼女の身体を揺する。あいつ達も何事かとこちらに近づいてきた。
 彼女はゆっくり目を開け状況を確認し、そして理解するとすぐに俺の身体から離れ、自分の足で身体を支えた(あとから思うと至福のひとときだったと思う)。しかしその足はふらついている。
「あ・・・・・、ごめんなさい・・・・・」
という彼女に俺は、
「えっと・・・・・、座った方が・・・・・」
と囁く。センスパと妹さんが気を利かせて席を立ってくれたため、彼女は電車の座席に座ることができた。
「ちょっとジェットラグで気分が悪くて・・・・・・、少し休めば良くなるはずだから・・・・・、ごめんなさい――」
 座ってから彼女は消え入りそうな声でそう言った。
「ジェットラグって?」
「時差ぼけのことだよ」
 俺の疑問には、あの人が解答を示してくれた。時差ぼけなら俺も知っている。時差がある二つの国の間を行き来した時に脳がそれに耐えられずに気分が悪くなってしまうことだ。
 彼女の隣のもう一つ空いた席に、あいつに促されて俺は座った。
「じゃあ、ホテルに着くまで座席で休めば――」
 俺はそこで口を閉ざした。彼女がうとうとしながら俺の肩に頭を乗せ、眠っているのに気が付いた。


 ホテルに到着して俺達はロビーに入る。特に高価な感じもせず、かと言って貧乏臭いような雰囲気もない。高校生が一週間宿泊するにはちょうど良いようなホテルだった。ただ、ロビーの近くには立派なレストランがあり、夕方であるが客席はほぼ満員に近い。
「じゃあチェックインしてくるから――。あ、あの、大人数で一気にホテルの部屋に行くと怪しまれるから、うーん・・・・・、10分後に407号室まで来てくれる?」
 彼女はそう言って、軽く微笑んでからフロントの方へ向かう。俺は時計を確認し、10分後の時間も記憶する。
「いやぁ、びっくりしたなぁ・・・・・」
 彼女がいなくなってから、あいつが呟いた。あの人も
「同意」
と短い返事をする。
「あそこまで可愛くなって帰ってくるとは、思ってなかった・・・・・」
 こんなあいつの言葉を聞いてもどうも思わないあの娘は心が広いのか冗談が分かるのか・・・・・。あいつとあの娘が相互に信頼し合っているということなのであろうが。まぁ、少なくともあいつの言葉には同意せざるをえない。
「あんなの卑怯だよ〜・・・・・」
 今までずっと黙っていた妹さんがぽつりと言った。
「そういう事は、言うものじゃない」
とあの人が咎めるが、妹さんは
「だって、あんな・・・・・、ぼいーんって・・・・・」
と頬を膨らませて、そして少しうつむいた。妹さんが言う、その観点で見れば、あの娘の方が上を行っているだろう(飽くまで俺の見立てである)。しかし二人とも、女子高生の標準を軽く凌駕いていることは間違いないが。って、俺は何を考えているんだ・・・・・
「あんなに綺麗な方だったんですね」
 思考の途中に突然話しかけられ、俺は少し驚いた。声の主は、妹さんと共に無言を保っていたセンスパだ。
「え、ああ、うん・・・・・」
 俺が曖昧な返事をすると、センスパは俺の目をじっと見つめて、そして真剣な顔で尋ねた。
「心移り、しましたか?」


 腕時計で10分が経過したことを確認して、俺達は彼女が宿泊している部屋を訪ねた。
「具合はどう?」
と俺が問う。
「うん・・・・・、大分落ち着いたみたい・・・・・」
「時差ぼけはベッドで寝るのが一番良いらしいけど――」
 俺がそう言うと、あいつが俺の肩をぽんと叩く。
「おっ、大胆だな。いきなりベッドか」
「そういう意味じゃなくてさ・・・・・」
「冗談だよ、そう慌てるなって!まだ夕方なんだからさ!」
 あいつの冗談は分かりやすいが反応が難しい。俺が苦笑して彼女の方に振り返ると、そこにいた彼女は頬を紅潮させていた。これだからあいつの冗談は、難しい。
「あの、もし良ければなんだけど――」
 彼女がその流れを断ち切るように少しだけ超えを大きくした。全員が彼女の方に注目した。彼女はそれに少しびくついたが、すぐに気を取り直して、言った。
「今日の夜、ここのホテルのレストランに集まって、みんなでお食事会しない?久しぶりに、みんなと話したいから――」


 あの人の提案で、彼女を一人にして十分な睡眠をとらせることにした俺達は一度ホテルを離れ、彼女と約束をした夜の7時になってから再び集まった。
 ロビーで待っていると、エレベーターから彼女が降りてくる。先ほどと違った服装だったが派手というわけではなく、なんとなく控えめなそのドレスは彼女らしい、と俺は思った。
 先ほど、豪華だという印象を持ったレストランに入る。彼女は宿泊しているため顔パスだったが、俺達はその彼女と同じテーブルにつくために多少の説明をすることになった。あの人が適切な言葉遣いでボーイを説得してくれたため、いとも簡単に彼女と同じテーブルに案内される。
 料理を注文し、代わりに出てきたお冷やを一気飲みする。思ったよりも手頃な値段で良かった。もしかすると、一番安いライスだけを頼むはめになっていたかもしれない。
アメリカはどう?」
と切り出したのはあの娘だった。
「極端に暑かったり寒かったり、道にライオンがいたりしないの?」
 あの娘のジョークに彼女はくすりと笑う。そのくどくない、上品な仕草も久々である。
「うん、日本と変わらない聴こうだから住みやすくて――」
 そこまで言ってから彼女は言葉を切った。注文した料理が運ばれてきたためだ。全員分の料理が揃ったところで俺達は丁寧に手を合わせると食事を始める。
「日本では何か変わったこと、あった?」
「うーん、あんまり大したことないなぁ・・・・・」
 彼女の質問に、あの娘が答える。するとあいつが
「これから目立つ行事といえば、センスパ発売くらいだ」
と補足する。その言葉に俺の左隣に座っているセンスパが、ぴくりと反応した。
「センスパって・・・・・?」
 不思議そうな顔をする彼女に、あいつはひと通りの説明をする。あいつの話を熱心にい聞いていた彼女はその話が終わると
「それなら、日本にいる間に発売だから、私も買えるね」
と微笑んだ。
 彼女の反応はとてもありがたかった。昔、ハピマテを買いあさった友人であったが、冷めた反応をされたらどうしようと冷や冷やしていたのだ。が、彼女は思っていた以上の反応を見せてくれた。本当に、ありがたい。
「向こうはどうだった?」
 今度はあいつが逆に質問をする。
メリケンボーイからモテモテなんじゃねぇの?彼氏何人作った?」
「そ、そんな・・・・・」
 あいつの質問に彼女はうろたえた。しかしあいつは面白がって質問を重ねる。
「でも、告られはしただろ?アメリカの男子に」
「・・・・・う、うん――」
 今度は控えめながらも頷く彼女。こういう時に正直な返答しかできないのは、彼女の良さであると俺は思う。
「告られて、何人にOKした?」
「ゼロ人だよ――。なに?この話題――」
 そう言いつつ、彼女は微笑んだ。
「はは、ゼロとは流石だなぁ・・・・・」
そう言ったが、あいつも節度が分かる人間だ。そのタイミングでその話題を中断した。否、もう欲しい情報は彼女の口から得られたのだろうか。
 あいつが俺の方をちらりと見てくる。俺はあいつからの視線を避けるために右側に首を向ける。と、今度は彼女と目が合ってしまう。その瞬間、彼女はほんの少しだけ赤面した。
「あっ、あのっ!」
 今までずっと無言だった妹さんが少し大きな声を出して注目を集めた。どうやら彼女に向けての声だったようだ。
「どうしたの?」
 彼女は優しい口調で応える。妹さんは少しだけ躊躇ったが、すぐに大きな目を彼女の方に向けると食事を食べるのも忘れながら尋ねた。
「私、兄から中学校のころの写真を見せてもらって、あながたどんな人か――凄く綺麗な人なんだってことは、知ってました」
 不要な相槌は打たない。それが彼女の話の聞き方だ。しかしそれを知らない妹さんは無言の彼女に不安になったのか、少しだけ早口になった。
「でも、でも、どうやったら、あの、どうなるんですか?アメリカで、何したんですか?」
 そう良いながら、妹さんは彼女の方を指さす。正確に言えば、妹さんの指が向けられているのは彼女の胴体の中でも上、つまり、胸に当たる部分だった。
「・・・・・え?あ、えっと、あの――」
 彼女の方も困ったような声をあげる。確かに彼女の身体的な成長は、アメリカでめまぐるしく行われたようだった。中学のころとは、比べ物にならない。
「こらこら・・・・・」
とあの人に咎められ、それでも妹さんは
「だって〜」
と反抗する。俺の隣のセンスパも、彼女の返答を真剣な顔で待っている。この場でその話に無関心で、若干あきれ顔なのは女性陣の中ではあの娘だけだ。
「何もしてないけど・・・・・、うん、何もしてない・・・・・」
 彼女の困り顔の返答を聞いても妹さんはあまり納得しなかったようだ。思い出したように自分の料理を凄い速さで口に運んでいる。
 俺はセンスパの言葉を思い出す。「心移り、しましたか?」というセンスパの言葉。ハピマテが忘れられずにいた俺だったが、思わぬ彼女の帰国で心がぐらついているのは事実だ。今の彼女はとても魅力的だ。中学時代の彼女に兵器を拡張搭載したような感じ・・・・・。そんな彼女に俺が惹かれていないと言えば、それは大嘘だ。
 今、俺が好きなのは、誰なのだろう――


 そのあと40分ほどで食事会は終わった。久しぶりに思いっきり言葉を交わした俺達は、誰もが満足していた。最初は余り喋らなかったセンスパも、次第に口を開きだして、最後には彼女とも親しくなれたようで、俺としても安心だった。
 彼女以外の全員が帰り支度をしてホテルの外に出る。彼女も俺達を見送るために出てきてくれた。
「それじゃあ、また」
 あいつがそう言って片手を挙げた。俺を含める他のメンバーも口々に別れの挨拶をした。
 明日以降はきっと彼女にも予定があるはずだ。だが、彼女が日本に滞在している間、もう会えないわけではないだろう。別れというのもはばかられるほど、小さな別れだ。
 しかし、彼女は少しだけうつむいた後、何かを決心したような顔をして、そうしてから俺の方をまっすぐと見た。そして、口を開く。
「あ、あの・・・・・」
「ん?」
「あの、ごめんなさい。少しだけ、いい?」
 その言葉はおそらく、否、確実に俺一人に向けられたものだった。月がぽっかりと、空に浮かんでいる。


 センスパ達を先に帰し、俺と彼女だけがそのホテルに残った。二人はどちらからともなく、無言のまま歩き出す。ホテルの周りをゆっくりと周回するように動き、やがて噴水がついている洒落た中庭にたどり着いた。昼間は草木と花が鮮やかに雰囲気を彩るものと思われるが、夜になるとそれらは息を潜めたように静まりかえり、何も変わらず音を立てている噴水と、そこに反射した月の形が印象的なひっそりとした空間に早変わり、といった具合だろうか。
「えっと・・・・・、何?」
 沈黙に耐えかねた俺の方が先に声を出した。彼女の方も、俺が何か言うのを待っていたようで、考えていた言葉をそのまま口に出す。
「本当に久しぶりの日本みたいな気がするけど、まだこっちを離れてから一年経ってないんだ――」
 彼女は俺に背を向け、空を見上げている。相手の目を見ずに話をするというのは、彼女にしては珍しいことだ、と俺は考える。
「あなたと離ればなれになってから、まだ一年経ってないってこと・・・・・」
「でも、久しい再会ではある」
 俺は彼女の話の途中に言葉を挟んでから、何も言うべきでなかったと後悔する。しかし、彼女は全く気にする様子もなく、月を見上げたままこう尋ねた。
「・・・・・私がアメリカに行っている間・・・・・、一度でも私のことを思いだしてくれた?」
「・・・・・え?」
 俺は彼女の質問に、とっさに答えられなかった。もちろん、何度も彼女の顔を思い壁足り、その声を頭の中で再生したり、交わした会話の一つ一つを思い出したりしていた。しかし俺は、その彼女の質問にイエスと答えることができなかった。何故だかは、自分でもわからない。
「私は向こうでも毎日あなたのことを思い返していた。うん、そう、本当に毎日――」
 彼女はゆっくりと歩を進める。先に進もうというより、その場の土をゆっくりと踏みしめるような、そんな動き。
「もちろん、あの彼が行ったように向こうの男の子に告白されたりしたよ?でも・・・・・、みんな断っちゃって・・・・・」
 あの彼、言うのはあいつのことだろう。俺は先ほどのことも考えて、口を挟まない。ただひたすら彼女の話を完全に記憶するほど耳を凝らして聞き、そしてその姿を見つめているだけ。
 俺のそんな考えを察するように、彼女は自分の言葉を使って、自分の口で話をする。
「断ったのはその人達が嫌いだったんじゃなくて、ただ、他に好きな人がいただけ――」
 そこで彼女は一端言葉を切った。切ってから片足を使ってくるりと身体を反転させると、俺の方をしっかりと見つめる。そう、いつも彼女が話をするときの訴えかけるようなその目で。彼女の口が開く。次の言葉を言うために。その動作が、スローモーションのように感じられた。
「あなたに今、他に好きな人がいるんだったら話は別です。でも、そうでないなら――、私が日本にいる一週間だけ、私と・・・・・、つ、付き合って・・・・・、下さい・・・・・」
 語尾がはっきりしなかったが、それで彼女の精一杯の勇気だったはずだ。彼女は土を強く蹴って、俺に抱きついた。彼女の顔が、俺の顔のすぐ横にある。顔の皮膚で、否、全身で彼女の呼吸を感じる。俺は両腕を使って彼女の身体を優しく抱いた。衣服を身にまとって抱き合う行為こそ、現代の人類が考え出した最高のロマンティックな行為である、と俺は考える。
 彼女は俺の耳元で、ぽそりと呟くように付け加えた。
「私・・・・・、やっぱりあなたのことが忘れられない・・・・・」
 その言葉に、俺の脳が回転する。
 今、好きな人は、誰なのだろう?
 思いつかないのではない。多数ある選択肢から選べないわけでもない。分からないんだ。分からない。でも――
「・・・・・うん、分かった」
 俺はそう返事をした。了承の返事。それが、彼女にどう聞こえたかは分からない。しかし、少なくともマイナスには聞こえなかったはずだ。
 彼女は
「本当?・・・・・ありがとう――」
とゆっくり発音し、耳元で微笑んだ。彼女の表情は見えなかったが、彼女がその時、微笑んでいたと俺は断言できる。あの、魅力的で昔と変わらない笑顔で。
 とその時、後ろからがたん、という大きな音がした。
 彼女は驚いて俺から離れ、音がした方向を見る。俺もそれに従う。
 そこには持っていたバッグを地面に落とし、ただ放心して立ちすくむ、一人の人物がいた。彼女の顔からはもう微笑みが消えていた。その人物がいつも見せてくれた微笑みを、表情に持ち合わせていないのと同じように。
「妹さん・・・・・」
 俺は無意識のうちに、その人物の名前を呼んでいた。



              (55話から61話まで掲載)