センスパと遊園地に行ってから数日後のことである。
 学校に行こうとする俺にセンスパが
「今日、私一人で出かけてもいいですか?」
と尋ねてきた。
「どうして?」
 俺が聞き返すとセンスパは一瞬だけ言葉を躊躇してからうつむき加減に呟くように返答をする。
「えと、近くの市民センターで仔犬とふれあうイベントがあって、その、私、今まで言っていませんでしたけど小動物が好きで、その時間、貴方は学校なので――」
「OK、いいよ」
 センスパの言葉の途中で俺は返事をした。このままだとセンスパの言葉が永遠と続くおそれがあったからだ。
 センスパの意外な趣味に少し驚きつつ、俺はそのイベントの時間を尋ねる。
「3時から5時半までです」
 俺の帰宅はだいたい4時半ころ。確かにそれでは間に合わない。
 俺は再びOKサインを見せ、時計を確認してから学校へと向かった。


 そして時間は進み、放課後である。
 下駄箱でいざ帰ろうとしているあの人に俺は近づき、話しかける。
「今日、学校にセンスパがいないよ」
 俺は前置きなしに話しかける。あの人も、言葉を聞き返したりせずに返答する。
「そうか、それなら――、お邪魔していいかな?」
 あの人の不気味な笑顔は、もう見慣れた。


 あの人は家に帰らず、直接の俺の家にやってきた。
 俺は鍵を使って自宅の玄関を開け、あの人を中に招き入れる。当然ながら中には誰もいない。もちろん、あの人を家に招いた理由はそれだ。
 あの人を家に招いたのは、センスパのことに関係がある。
 先日、あの人が言った言葉。それを俺は忘れていなかった。センスパのノートパソコンを拝見しよう、という話である。
 俺もプライバシーの侵害のような行為は、良心が痛む。しかし、あの人の「バレなければ」とという言葉が引っかかっていた。それに、センスパ自身のことについては、俺も興味があった。
 部屋に入ると予想通り、ノートパソコンが放置されていた。
「帰ってくるのは5時半だったね。速急に作業を進めようか」
 現在時刻は4時37分。あの人がノートパソコンの電源を入れる。俺はそれを黙って見る。
 あの人は馴れた手つきでマウスを操作する。マイコンピュータ内のローカルディスクをクリック。ハードディスク内のファイルを開こうとする。
「ん・・・・・」
 あの人が声を漏らした。俺もディスプレイをのぞき込む。
  あなたの“好きなもの”を入力してください。あと3回。
 そこには、そう書いてあるポップアップが浮かんでいた。
「パスワード入力のようだね」
 あの人が呟くように言って二、三回キーボードを操作すると、腕を組んだ。
「設定を見る限り、三回間違えると警報が持ち主の携帯にメールとして送られるみたいだね」
 つまり、三回間違えるとセンスパの元に情報が届く、ということか――
「やめようか?」
「いや、2回やってみる価値はある」
 あの人はそう言って、キーボードに手を伸ばした。
「これって、センスパが好きなものを入力すればいいわけだよね?」
「そうなるね」
 あの人はキーボードを叩く。パスワード入力画面に『ハッピーマテリアル』の文字が浮かぶ。どうやら☆の記号は入力できないようだ。
 エンターキーを押す。とたんにエラー音がスピーカから流れた。
  パスワードが違います。あと2回。
「こんなに簡単じゃないか・・・・・」
「じゃあ、小動物、は?」
 あの人は俺に言われるままキーボードを叩いた。『小動物』。そしてエンター。
  パスワードが違います。あと1回。
 エラー音と共に出てきたメッセージを見て、俺は愕然とする。これでもないとすると、あとは何なんだ?
「『ハピマテ』とか『姉』じゃないかな」
「そんな単純じゃないと思う。他人に、つまり君に知られていることだからね」
 あの人の返答を聞いて俺は、じゃあ、と言う。
「もう、やめよう・・・・・」
 あと1回でパスワードを当てられる自信はない。無駄にリスクを負う必要はない。もう、やめるべきだ。
「いや、もしかして・・・・・」
 あの人は、俺がディスプレイを見ていない時にキーボードを叩いた。
 そして、俺が止める前に、エンターを押してしまった。
 すると、スピーカからは先ほどと違うシステム音が鳴り響いた。画面には
  認証されました。
の文字が浮かんでいる。パスワード、解除――
 にやりと笑うあの人に、俺は
「何て入力したの?センスパの好きなものって、何?」
と尋ねる。あの人は俺の質問に一度微笑んで眼鏡を掛け直すと、ゆっくりと発音した。
「君の、フルネームさ」
 ――俺の思考が一瞬停止し、再び動き出した。
 センスパの“好きなもの”が、俺のフルネーム?それって、どういう・・・・・
「一発変換できたから、確信したね」
 あの人は俺の方を見ずに言った。俺は質問をしようとしたが、それより前にあの人が
「時間がない。早めに用を済ませよう」
と言ったため、俺は口をつぐんだ。
「これ、だね」
 そう言ってあの人はディスプレイ上の『物世界に関する一考察』というファイルをダブルクリックする。ソフトが立ち上がり、文書ファイルが開かれた。
 とても見やすくレイアウトされているそのファイルを、俺とあの人は何故か息を潜めながら上からゆっくりとスクロールする。
 既知の情報がほとんどであったが、中には未知の情報もあった。それらを箇条書きで挙げてみると、こんな感じだ。

  1. 物後の世界に来る際持っていた目的を達成すると、望みを一つ叶えることができる。
  2. その望みは“物”によって異なる。
  3. 一部でしか知られていないマイナーな“物”(センスパやハピマテもこれに当てはまる)は、ランキング関係の目標を持つ事が多い。
  4. 今までその目標を達成し、望みを叶えてもらった例は稀である。


他にもいくつか新たな情報はあったが、特に羅列する必要があるものとは思えなかったので割愛することにする。
しかしそれでもあの人は満足したようである。俺にとって既知のことでも、あの人にとっては知らないことばかりだったのかもしれない。
20分ほどその文書ファイルを眺め、あの人は一息つくと立ち上がった。
「時間より早く帰ってくる心配があるからね。欲しい情報は得られた」
 そう言うとあの人はマウスを操作し履歴を消すと、電源を切る。
「僕は帰るよ。それじゃ」
 そう言い残したあの人は自分の鞄を持って、帰っていった。あっけない終わり方だったような気もするが、センスパにバレないようにするためにはそれが得策だということは俺も分かっていた。
「さて――」
 一人だけになった部屋で、俺は無意味な声を漏らす。センスパのノートパソコンの中にあるファイルは、一つしか見ていない。他にもファイルは色々あった。心の奥底から、興味という二文字が沸いてくる。
 俺は生唾を飲み込むと、再びセンスパのノートパソコンの電源を入れた。ローカルディスクをダブルクリックし、パスワード入力画面で俺のフルネームをタイピング。今度は一発で認証された。
 フォルダの中には犬や猫の画像、それにハピマテの音楽ファイルなどが沢山入っていた。その中で一つのファイルが俺の目を引いた。
 俺は、『Diary』というファイルを開いた。
 すぐに日記用ソフトウェアが立ち上がり、センスパの日記帳が現れる。几帳面なことに、俺と出会ったあの日から毎日、日記が付けられていた。
 若干の罪悪感を覚えながら、しかし興味関心がそれより勝っている俺はマウスホイールを使って画面をスクロールする。
 一番始めの記事は、こうである。
『姉さんが好きになったという人と初めて会った。想像と少し違う感じだ。』
 俺は黙ってその後の記事を目で追う。
『彼に勧められ、コンタクトを作った。目に入れるのが少し怖かったけど、付けてみると違和感はない。似合っていると言われたので嬉しい』
『街に行った。不良と会って危なかったけど、彼が私の手を引いてくれた』
というような内容が途中から目立ってきた。彼、というのが俺のことらしい。
 他にも
『彼が知らない女の子と仲良くしている。誰なのか分からないけど、今日は夜遅くまで一緒にいたようだ。どういう関係なのか気になる』
『彼と遊園地に行く約束をした。いつ行けるかは分からないけど、それまで物後の世界のことをもう少し勉強しておこう』
などという、俺に関しての記事が多くなってきたように思える。
 そして俺は、中にあった一つの記事を見て我が目を見張った。硬直した。思考が、停止した。
『キャンプから帰宅。楽しい三日間だった。』
という書き出しのその日の記事は、こう続いていた。
『三日間、彼と過ごしてみて、私は改めて彼のことが好きなのだと分かった。きっと、そうなのだ。姉さんに申し訳ない。でも、この気持ちに嘘はつけない。それに、気持ちの強さでは、姉さんに負けるつもりはない』
 ――俺のことが、好き・・・・・?
 三回その記事を黙読して、マウスを持つ自分の手が震えていることに気付いた。ひょんなところで、思ってもいなかったものを見てしまった――
 その時だ。
 俺の背後でガタン、という音がした。俺は振り返ることすら忘れて、画面を見つめていた。
 音がしたことに気付いてから数秒後、ハードディスクがカリカリと音を刻んでいただけで、ほとんど沈黙を保っていたその部屋に、冷たい声が響いた。
「・・・・・何をしているんですか?」
 俺の後ろに、センスパが立っていた。


「・・・・・センスパ、か」
 止まっていた思考を必死で回転させ、俺は現在状況を確認する。
 今の俺は、センスパに隠れてノートパソコンを盗み見していた。そして、この場にはセンスパ本人がいる――
 我に返った俺は時計を見る。5時47分。いつのまにか、時間が経過していたようだ。それほどに精神的に集中していたようだ。いや、今はそれどころではない。この状況は、最悪だ。
「私のパソコンの中身、見たんですか?」
 センスパの声が、俺の胸に鋭く、そして冷たく突き刺さる。
「・・・・・」
 俺が黙って何を言わないのを見越したように、センスパはまっすぐ俺の方を見つめながら言葉を継ぐ。
「パスワードも解いたか、無理矢理解除したみたいですね。セキリュティは万全だったのに、どうやったんですか?」
 あの人がパスワードを解いたとは言えない。第一、センスパの存在があの人にバレたということは黙っておきたいし、あの人にも、今俺がこんな状態になっていることは秘密にしておくべきだ。無駄な責任を、あの人になすりつけるつもりはない。
 そうじゃない、そうじゃないんだ。
 俺は頭を軽く振って考えをまとめる。冷静になれ。今の俺は、センスパに対して取り返しのつかないことをしてしまった。馬鹿野郎、それでも男なのか。
「これは、その・・・・・」
 脳内で響いている自分に対しての戒めの言葉とは裏腹に、俺の口からは何とも言えない言葉が漏れる。
「なんですか?言い訳なら聞きますよ?」
 センスパの声色は変わらない。その表情も、変わらない。
「・・・・・何でもない、俺が悪かった」
 俺がそう言うと、センスパは無言のまま俺の方に歩み寄り、ノートパソコンを片手で持ち上げるとそのディスプレイをのぞき込んだ。
「日記・・・・・、見たんですか?」
「・・・・・ごめん」
 俺の返事を聞いて、センスパはキーボードを操作しコンピュータをシャットダウンさせると、俺に対して背を向けてドアのところに立ち、部屋を去り際に震える声で呟いた。
「・・・・・こういうことはしないって、信じてたのに――」
 その顔を見ずとも、泣いていることが分かった。


 翌日になり、俺は珍しく朝、一人で目を覚ました。否、ほとんど寝ていなかったという方が正しいだろうか。
 結局あの後、センスパは一言も口を利いてくれなかった。それどころか、一緒の部屋が嫌だと無言のメッセージを俺に送り、一階のリビングで夜を過ごしたようだ。
「じゃあ、行ってくるよ・・・・・」
 俺が鞄を持ちそう言うが、センスパはこちらに背を向けたまま何も言わない。今までは見送ってくれたのに・・・・・
 俺はそう思いつつ、ドアを開け、無言のまま家を出た。堪えないと、自分も泣いてしまいそうだった。

 放課後になり、まったく集中できない授業が終わりを告げた。
 授業中も俺はセンスパのことを考えていた。どう謝ろうか、ということから考え始めたが、だんだんとセンスパはこのまま許してくれないのではないか、と考えが回った。
 家に帰って、センスパが物の世界に帰ってしまっていたら、どうしよう。
 そんな空虚な妄想が頭の中を巡り、そして焼き付いた。
「君、これから暇?」
 突然声を掛けられて俺は身体を少し揺すってから振り向く。
 あの人が、いつも通りの表情でそこに立っていた。
「用事はないけど・・・・・」
 俺がそう答えると、あの人は
「妹がケーキを焼くから君に食べて欲しいってさ。来る?」
と尋ねる。疑問系ではあったが、ほとんど強制的な発言だった。
 このまま家に帰るのにも気が乗らない。俺は少しだけ考えて、
「OK、いくよ」
と返事をした。


 もうすっかり慣れてしまったあの人の家に到着。俺は自転車を置いて、あの人に招き入れられ家の中に入る。
「こんにちは・・・・・」
 挨拶をして俺が中に入ると、泡立て機を片手にもって頬に生クリームをつけたエプロン姿の妹さんが姿を現した。
「ほら、連れてきたよ」
 あの人が言うと妹さんはすぐにキッチンの方に引っ込んでから
「あーん、帰ってくるの早いよう〜」
と声だけで返事をした。
「しかたないだろう、先生達の都合で早めに授業が終わったんだ」
 あの人がそう言うが、妹さんから返事はない。少ししてから
「もう少しで出来るのでちょっとリビングで待っててください〜」
と声がしたので俺はその声に従うことにする。
 リビングの机の上には動物の形をしたクッキーが置かれていた。
「ケーキ出来るまでクッキー食べててくださいね〜」
という妹さんの声を聞く限り、これも妹さんの手作りのようだ。
 俺はお言葉に甘えることにしてクッキーをつまみ、口に放り込む。美味しい。
「うん、美味しいよ」
 俺が言うと妹さんは今度は顔だけをこちらに見せて
「ありがとうございます〜、ケーキはそれの100倍美味しいですよ、えへへ」
といって、再び顔を引っ込めた。


 数分後、妹さんがケーキを持って現れた。
「はい、出来ましたよ〜」
 そう言って妹さんはケーキを机に置くと、こちらを見てにこりと笑った。
 そのケーキには板チョコのデコレーションが乗っており、その板には白く文字が描かれていた。
 “I love you.”と、筆記体で。
「へぇ、嬉しいメッセージだね」
 俺の隣に座っていたあの人が、俺より先に声をあげた。それを聞いて妹さんは
「違うって〜、お兄ちゃん宛じゃないよ、もう〜」
と頬を膨らませる。
「分かってる、冗談」
 あの人はにこりともせずにそう答えた。
 俺は何と言って良いのか分からなかったが、頬を指で掻きながら
「あ・・・・、えっと、ありがとう」
と言った。一方妹さんは俺の方を見て相変わらずにこにこ笑いながら
「えへへ、喜んで貰えて何よりですよ〜」
と言って、自分の指についていた生クリームをぺろりと舐める。
「じゃあ、切りますね〜」
 妹さんはそう言ってホール型になっていたケーキをピース型に切り、それを小皿に分けた。俺とあの人と妹さんの三人分に分けてもまだ残るくらいの量だった。
「はい、これはお兄ちゃんにはあげないからね」
 妹さんはデコレーションの板チョコを俺の分のケーキに乗せると俺に渡した。
 とても照れるが俺はありがたくそれを頂き、口に運ぶ。
「うん、美味しいよ」
と俺は感想を述べ、横目であの人を見る。あの人は無言無表情でケーキを食べていた。まぁ、いつものことだ。
 笑顔を作ってケーキを食べている俺のことを妹さんはしばらくじっと眺めていたが、俺が箸休め(この場合はフォーク休めだろうか)に皿をテーブルに置いた時、妹さんは思い出したように口を開いた。
「どうしたんですか?元気ないですよ〜」
「え?そんなことないよ」
 俺はそう答えるが、妹さんは俺を見つめたまま続ける。
「ごまかしたって駄目です、私、こういうのは鼻が利くんですよ〜」
 その言葉にあの人が
「もっと他のことを考えればいいのに・・・・・」
と呟いた。妹さんは怒った様子で
「む〜、私、ガッコのテストでずっと一番だもんね」
「学校のテストは99%が無駄なんだよ」
「じゃあ残りの1%はなんなの?」
「自分の名前を書く練習になる」
 あの人の冗談に妹さんはにこりともせず、
「面白くないよ、そのジョーク」
「はいはい、これは失礼しました」
 これであの人がぴたりと静かになった。妹さんは再び俺の方に向き直る。
「もしかして、失恋したんですか?」
「いや、そんなこと・・・・・」
 これは、失恋というのだろうか。センスパは俺に対して好意を抱いてくれていたようだ。しかし、俺は・・・・・?
 俺はセンスパのことが、好き、だったのだろうか。友好的な意味でなく、恋愛的な意味で。
 そんな俺の思考の途中に、妹さんは俺の方を見てにっこり微笑んで、そして続けた。
「いざとなったら私があなたの恋人になってあげるから、大丈夫ですよ。なーんて、えへへ・・・・・」


 あの人の家を訪問してから、さらに二日が過ぎた。
 その間、センスパと交わした言葉は二桁もないし、それら全ては「はい」とか「どうぞ」とか、そういう業務的なものだけだった。つまり、センスパとの決裂はまだ回復していない、ということだ。
 ここまでくると、いってきます、の一言を言うことさえ億劫になってしまう。その気持ちが状況を悪化させているのかもしれないが、今の俺にそんな慰めをするのは無駄であった。
「・・・・・」
 無言のまま家のドアを開け、外に出る。ソファに座って新聞を読んでいたセンスパは、こちらに目も向けず新聞記事に没頭しているようであった。
 ひたすら自転車をこいで学校に向かう。通学途中であの人と会った。
「やぁ、おはよう」
「ああ、おはよう・・・・・」
 あの人の挨拶に、俺は気のない返事を返す。
「本当に元気ないね。妹の鼻を持参しなくても分かるくらいだ」
とあの人が言うが、俺は無言を返事代わりにする。あの人はその返事を受け取り、小さいため息を俺に返球した。


 こうなれば誰かに相談してみよう。
 それが、俺が悩んだ末出した結論だった。
 一人で考えていても、どうなるものではない。しかし、相談するとなれば誰か。
 あの人はNGだ。センスパにノートパソコンを見ていたことがバレた、という事実を、あの人には伝えたくない。その部分を伏せて相談しても勘の良いあの人のことだ。すぐに見抜いてしまうに違いない。
 しかし、あの人の他にこんな恋愛沙汰を相談できるほど親しい奴はいない。と、なればここは――
 そう思って俺は昼休みに、目的の人物に声を掛けた。
「あのさ、ちょっと相談に乗って欲しいんだけど・・・・・」
「何?金銭的な相談以外だったら乗るけど」
 女史が俺の方に振り返った。


「――と、いうわけなんだ」
 俺は女史に相談内容をことさらに話した。もちろんセンスパが物の世界から来た女の子だ、などとは口が裂けても言っていないが、全面的に俺の責任でその女の子と喧嘩している、その女の子はどうやら俺のことが好きらしい、ということを話した後、アドバイスをお願いした。
 俺の話を真剣に聞いていた女史は一回二回と大きく頷き、そして口を開いた。
「キス、ね」
「はい?」
 女史の言葉が発されてから1秒未満の感覚で俺は聞き返した。女史はそんな俺にもう一度ゆっくり
「キスよ」
と繰り返した後、続けた。
「キスすれば全て解決。私だったらそれで許すわね。だってその女の子、あなたのことが好きなんでしょ?あ、もちろん付属する言葉も必要だけどね」
 そう言って女史は少しだけ考え込み
「これで許して貰えるとは思っていない、でも俺はお前と仲直りしたいんだ!とか、哀愁を漂わせながら言うのよ。うん、私だったらそれでOK」
「あの人がその台詞を言えば、そりゃ絵になるだろうけど・・・・・」
 俺がそう返事をすると、女史は腰に手をあてて少しかがみ込み、若干上目遣いで俺を見ると
「変な揚げ足とらないの!」
と怒ってから、にこりと笑った。


 帰り道のことである。
 俺は駅前にぶらりと立ち寄った。と、言っても目的がないわけではない。センスパに何か買っていこうと思ったからだ。
 物で全て解決するのは良いとは思わない。しかし、俺に浮かんだアイディアはそれくらいしかなかった。女史のアドバイスも、今は実行する気にはなれなかった。
 何も買わずに雑貨屋から出て、次の店に向かおうとした時、俺は向こうを歩いている人影に気が付いた。
「おーい!」
 俺はその人影に手を振ってから走り寄る。あいつが、そこを歩いていた。


「お、おう!」
 俺が駆け寄るとあいつも俺に気付いて軽く片手を挙げた。
「久しぶりだな」
 あいつは俺の方を見てにかっと笑った。俺も僅かに微笑み返し、唐突に本題に入る。これが俺とあいつの昔からのやり方だった。
「相談があるんだけど良いかな」
 するとあいつは腕時計に目をやってから
「ちょっとこれから用事があってな。長く話をしてられないんだ。長話にならないんだったら聞くぜ」
と言う。俺はその言葉を聞いて、早口で話を始めた。
 女史に相談した台詞をそのまま使用したのであいつへの状況説明は2分ほどで終わった。俺が話し終えると、あいつは
「そうか、そうだな・・・・・」
と意味ありげに呟くと顔をあげ、俺の肩にぽんと両手を置くと笑って
「その子の唇、奪っちまえ」
と言った。
「え、ちょ、お前・・・・・」
「悪いな、急いでるんだ。また今度ゆっくり話そうぜ!」
 俺の言葉を強引に振り切ると、あいつは手を振りながら走り去っていった。その場にぽつんと残された俺は頭の中であいつと女史の言葉をひたすら繰り返していた。


 何も買わずに家に帰った俺は、既に決意をした後だった。
 あいつと女史のアドバイスに従おう。それが、最良策だ。それが俺の導いた結論だった。
「ただいま・・・・・」
 俺がそう言っても返事はない。予想通りである。
 自分の部屋に入ると、センスパが自分のノートパソコンをしていた。が、俺が部屋に入るとセンスパは慌ててパソコンを閉じ、無言のまま部屋を出ようとする。
「ちょっとまって」
 俺はそう言ってセンスパを止める。ぴたりと音がするのではないかというくらい、センスパは急停止して俺の方に振り向いた。
「センスパ、あのさ――」
 俺がそう言った瞬間、部屋の電気がふっと消えた。
 否、部屋だけではない。家中の電気が消えた。窓から外を見る。周りの家の電気も、全て消えている。
 ――停電だ。
 俺はとっさにそう思った。外はもうまっ暗。雲があり、月明かりもない。
 その瞬間、俺の心臓がきゅんと縮まったような気がした。周りはまっ暗、暗い、暗い、暗い――
 俺の精神状態が乱れる。精神が乱れ、周り、回り、落ち、墜ち、そして、沈む――
 その時だった。
 俺の右手を、誰かがぎゅっとつかんだ。そして、その先の暗闇から声が聞こえる。
「大丈夫です、私がいます。大丈夫――」
 センスパだった。
 今にも気を失いそうになった俺の手を、センスパが握ってくれた。俺は正気を取り戻す。
 停電は3分ほどで解決され、すぐに電気がついた。その間、センスパはずっと俺の手を握っていてくれた。
 電気がついて俺は安心する。センスパもほっとしたような顔を見せ、そして気が付いたように自分の手を、俺から離した。
「ありがとう」
 俺がそう言うと、センスパは軽く頷いてから呟く。
「い、いえ・・・・・」
 すとんとベッドに腰を下ろしたセンスパに合わせて、俺もベッドに腰を下ろす。俺とセンスパの姿が二つ、並んでいる。
「あのさ、この前のこと、改めて謝りたい」
 俺はセンスパにそう言った。センスパは俺のことをただひたすら見つめてくれる。そんなセンスパに安心して、俺は真剣な顔を作って囁くように言った。
「その前に渡したいものがあるんだ。びっくりさせたいから・・・・・、少し、目を閉じて――」


 目の前にいたセンスパが不思議そうな顔をしながらゆっくりと目を閉じたことを確認して俺は、大きく深呼吸をした。
 精神を安定させる。今、自分が実行しようとしていること。それを頭の中で再確認、再認識する。そして自分自身の精神を再確認。システムオールグリーン。
「もういいよ」
 俺はそう言った。センスパは恐る恐る、しかし少し期待したような顔で目を開けた。
 その瞬間、俺はセンスパの顔を両手で柔軟に、けれどもしっかりと包み込んで、自分の顔を素早く近づけた。
 柔らかく、淡いキス――
 自分の経験の中でも短いキスだった。すぐに唇同志を離すと、俺は顔を少しだけ横にずらしてセンスパの表情を見る。なるべく、優しい目で。
 呆気にとられ驚くこともできずにいるセンスパ。俺は、その表情が崩れないうちに言葉を発する。
「あのときは本当にごめん。こんなので許して貰おうとは思ってないし、かえって軽率だとも分かってる。でも、俺にできるお詫びはこれくらいだ。これで俺のことが嫌いになったなら、それでいい――」
 俺のことをじっと見つめながら、センスパは少しの間、口を閉ざして黙っていた。だが、その沈黙には負けない。少なくとも、今の俺は。
 センスパの頬を軽く撫でて、俺は手を離した。それを見計らったかのように、センスパは片手で目を擦り、そうしてから口を開いた。
「嫌いなんかになりません。それにもう、あの時のことは許していました」
 徐々にうつむいていくセンスパだったが、その言葉はしっかりしていた。
「私、逆に貴方が私のことを嫌いになったのかと思っていたんです」
 俺が、そんなことない、と言うより前にセンスパは俺の腰に手を回してきた。そして言葉を継ぐ。
「私がいつまでも貴方のことを無視しているから、貴方もだんだん愛想を尽かしてしまったのかと思って・・・・・。だから、私の方からも話づらくて、それで、それで――」
 言葉の語尾がだんだんと震える。と、ともにセンスパは顔を俺の胸のあたりに押しつけてきた。強く、力強く。
 俺はセンスパの身体を抱き寄せる。部屋で抱き合うという光景も、新鮮なのだろうと思う。声を出さずに涙を流しているセンスパを逃がさぬよう俺は抱きしめる。
 俺の身体に挟まれながら、センスパは布のように薄い声を出す。
「――もう、日記見られちゃったから、言います」
「・・・・・うん」
 俺の相槌の後、少し沈黙してからセンスパは顔をあげ、俺の方を見上げて、言った。
「貴方が好き。好きです、大好き。もう、ここから離れたくないくらい、好きです」
 その目からこぼれる涙はとても幻想的で、そして真珠のように美しかった。
「ありがとう――」
 俺がそう返答すると、センスパは、ぱっと俺の身体から離れると俺の方を見ながら
「返事はいいんです。返事がほしくて、こう言ったわけじゃありませんから」
 笑っていた。涙を流しながらの笑顔は、今まで見たなかで一番綺麗で愛らしくて、可愛い。そう思った。



「起きてください、朝ですよ!」
 センスパの声で俺は目を覚ます。休日だったので寝坊しようと思っていたのだが、俺は時計を見てから目を擦る。
「まだ9時じゃないか・・・・・」
 俺が言うとセンスパは俺の掛け布団をはぎ取った。一気に身体が冷える。
「休みだからって寝坊は駄目です。早起きは三文の得という言葉があります」
 そう言いながらセンスパはにこにこしながら俺に一通の封筒を手渡した。
「これはなに?」
「貴方宛に届いていた封筒です」
 誰からだろう。そう思いながら俺は封を開ける。そして、中から白い一通の手紙をとりだした――




              (41話から47話まで掲載)