妹さんの表情はいつも見せてくれた活気にあふれたものとはほど遠いものだった。現実を飲み込めることはできるが、それをしたくない、というような青ざめた表情は、月明かりだけでも確認できる。
「あ、あの――」
 俺はそう言いかけたが、その瞬間、妹さんははっと我に返ったような仕草をして、何も言わずに俺達に背を向け、そして走り去った。
「ちょっとまって!」
 彼女がそう呼び止めるが、妹さんは聞く耳を持たない。追いかけようか迷ったが、ここは無理に追いかけない方が得策だと、俺は考え、その場に立ち止まった。
「・・・・・どうしよう」
 妹さんの姿が見えなくなってから、彼女はそう呟く。俺が考えていたことと完全に合致していた。
 困った表情を浮かべている彼女を、俺は真剣な顔を見せながら、
「大丈夫、俺がなんとかする・・・・・」
と言って安心させようとした。が、俺自身の精神状態が安心とはほど遠いものだったため、それは叶わなかったかもしれない。
 しかし彼女はそんな俺の心境を察してくれたのか、無理に笑顔を作ると
「じゃ、じゃあ、今日は遅いから・・・・・」
と言って軽く片手をあげた。別れの挨拶なのだと認識した俺も
「うん、じゃあまた」
と返事をして、その場を離れ、家路についた。
 あのまま、妹さんに目撃されていなかった場合、彼女があの後、どんな行動をとるつもりだったのかは分からない。同じくそこで別れを告げていたかもしれないし、ひょっとするとホテルの中に俺を連れ込んでいたかもしれない。しかし、それも既に空虚な妄想にすぎなかった。


「ただいま・・・・・」
 俺はそう言って自宅のドアを開ける。中から
「お帰りなさい」
といつも通りのセンスパの言葉が返ってきたことで、俺は幾分安心する。
 部屋に入ってベッドの上に腰を下ろすと、センスパも俺の隣にすとんと座り、そして俺の方を見てから口を開いた。
「何をしていたんですか?」
「・・・・・」
 その質問に俺は答えない。否、答えるための言葉が見つからない。
 無言の俺に、センスパは更に鋭く問いを重ねる。
「告白されたんですか?」
 今度は無言で頷く。もちろん、イエスという意味のジェスチャーだ。
 するとセンスパは、意外な反応を見せた。
 ふっと、笑みを見せたのだ。
「良かったですね、おめでとうございます」
「え?」
 俺はセンスパの方を見る。センスパは、にっこりと笑って、ゆっくりと発音した。
「私、貴方のこと、心配していたんですよ。はっきり言いますが、貴方はもう姉さんとは会えません。だから、貴方が姉さんを忘れられないというんは、少々考え物だったんです。だから、貴方に新しい恋人が出来たということは、私も素直に、とはいきませんが、喜べることなんです」
「うん、ありがとう・・・・・。ごめん・・・・・」
 笑顔のセンスパを見て、俺はそれしか言うことができなかった。自分でも、何を言っているのか、よく分からなかった。


 あの後、俺は携帯で妹さんにメールをした。明日、会えないか、という内容のメール。妹さんからの返信は、夕方なら会える、という短いものだった。俺はその返信を見て、放課後に妹さんと会う約束をした。
 次に俺は彼女にもメールをした。妹さんと会って話をするから、心配しなくてもいい、という内容。彼女にメールすべきかは少し迷ったが、俺は考えた末、送信ボタンを押した。彼女からの返信も、簡略的だった。そうであって、内容は意味深でもあった。
『うん、よろしく。あと、ごめんなさい』
 その返信の意味を、俺は理解することができなかったがポジティブな方向で受け取ることにした。そうでないと、身体が壊れてしまいそうだったから。
 そして今、俺は妹さんの通学している中学校――俺の母校であるが――の校門の前で、妹さんが出てくるのを待っていた。最後のホームルームが終わる時間を大体記憶していたこともあって、あまり待つこともなく、妹さんが出てくる。三人の女子生徒と話をしながらその表情に浮かべている笑顔は、俺が見慣れたものであった。
 妹さんが俺のことに気が付いたようなので、俺は片手をポケットに入れたまま、反対側の手で挨拶をする。妹さんはとてとてと走ってくる。
「こんにちは〜。ごめんなさい、待たせてしまったみたいで〜」
「いや、大丈夫。待ってないよ」
 友達と思われる三人もこちらに歩いてくる。眼鏡を掛けた女の子が、
「え?何?もしかして彼氏?」
と妹さんに尋ねた。
 俺は少し動揺する。が、妹さんは至って冷静だった。
「ううん、違うよ〜」
 きっぱりとそう発言した。いつもの妹さんとは違う反応だと、俺は思った。普段なら、「えへへ〜」などと言って俺の手を握ってきてもおかしくないシチュエーションであった。
「それじゃ、行きましょう〜」
 妹さんは俺にそう言った後、友達に別れを告げて他の人達とは違う道へ歩き出した。何処へ行くとも決めていなかったが、俺は妹さんに従う。妹さんも、友達に今から起こるであろう事態を知られたくないのだろう。
 しばらくして、近くにある公園に到着した。俺は入り口に自転車を留めて、妹さんに着いていく。中にあった小さなベンチに妹さんが腰を下ろした。その隣に俺も静かに座る。
 1分ほどして、妹さんが重い口を開いた。ぽつり、という擬音が似つかわしいようなしゃべり方。俺が聞いたことがないような真剣な声だった。
「昨日はごめんなさい。私、なんだかわけが分からないことをしてしまって・・・・・」
「・・・・・どこから、見てた?」
 俺はなるべく優しい口調で尋ねる。それに、妹さんはうつむいたまま答える。
「多分、最初から・・・・・」
「そうか・・・・・」
 考えていた限りの、最悪の展開だ。だが、最悪も想定さえしてしまえば、そんなに悪いものでもない。人は想定外の事態を真に最悪と呼ぶ。
「じゃあ、聞いた通りなんだ。ただ彼女は一週間だけって言ったから、彼女が帰国してからは――」
「いいんです」
 俺が一晩かけて考えた台詞を、妹さんは途中で遮った。
「私、はじめからあなたのことは諦めていたんです。言いましたよね、たしか、遊園地で。だから、いいんです、気を遣わなくても――」
 妹さんの言葉は震えていた。震えていたが、一語一語、はっきりしていた。
「それなのに、なんだか泣きたくなっちゃうんだ・・・・・。なんで、なんででしょうね。なんだか、悔しくって・・・・・・。自分が、悔しいんです。諦めてたのに・・・・・。私なんて、可愛くなくて、変なことばっかり言って、学力だけ無駄にあって、背が低くて、ぺったんこで・・・・・、なんだか、もう嫌・・・・・」
「自分のことを卑下するんじゃない」
 俺は優しい口調で妹さんに言う。そして、その小さい肩に俺の手を乗せる。
「可愛くないなんて、そんなわけない。君は凄く可愛い。可愛いよ。だから、俺より良い他の男の子だって、すぐ見つかるし――」
 俺の言葉は、そこで中断することになる。妹さんが、俺の手を自分の肩から振り払ってベンチから立ち上がり、俺の方を振り向いたからだ。
「あなたより良いなんて、いないんです。だからこうして泣いてるんじゃないですか!」
 眉をつり上げ、目から涙をこぼしながら大声を出す妹さんの迫力に、俺は黙り込んでしまった。黙り込んだのと同時に、とても驚いた。ここまで感情的な妹さんは、初めてだ。
 泣いて、そして怒っている顔を見せたくないというように妹さんは振り返って俺に背を向け、制服の袖で涙を拭くと
「さよなら・・・・・」
とぽつりと呟き、走ってその場を去った。
「あ、ちょっと!」
 俺もそう言って立ち上がるが、妹さんは立ち止まろうとしない。公園の出入り口から出ていったその姿はすぐに見えなくなった。
 俺は黙ってその場に立ちつくすことしかできなかった。何かを考えることすら、できずにいた。



 それから、妹さんとは音沙汰なしだった。あの人が俺に対して何も問いつめてこないのは、妹さんが家では何もなかったような顔をしているのか、それともあの人が俺に対して何か尋ねるのは野暮だと考えているのか、そのどちらかであるものと思われるが、後者だった場合、なんとも俺の胸が痛む。
 そんな妹さんのことを引きずりながらも反面、俺の心の一部は興奮を隠せずにいた。
 今日は運命の日だ。
 カレンダーを見て、今日の日付をもう一度確認する。11月8日。そう、今日はいよいよやってきた、1000%SPARKINGの発売日だった。
 平日のため学校に行かなければならないが、放課後に時間がないわけではない。俺とあの人、それからあいつ、あの娘、彼女、そしてセンスパの6人は放課後の時間帯に駅前に集まる約束をしていた。目的はもちろん、他でもないセンスパ購入である。
 その日の授業は一つ一つがとても長く感じられたが、その憂鬱な授業もなんとか切り抜け、ホームルームが終わってから俺はすぐに教室を飛びだした。待ち合わせの時間に遅れそうだったということもあったが、早くこの手でCDを買いたい、という単純な感性もあった。
 あの人は冷静に俺の後ろをついてくる。ポーカーフェイスを保っているが、きっと彼もCDを手に取りたくてたまらないはずだ。
 ――あの人と二人で自転車をこぎ、駅前までやってきた。
 周りを探すと、すぐにその4人を見つけることができた。
「おせーぞ!」
といいながらも手を振っているあいつ。その横にあの娘と彼女、そしてセンスパが揃って立っている。
「悪い悪い、ホームルームが長引いちゃってさ・・・・・」
 俺はそういいながら無料の自転車置き場(つまり路上駐輪であるが)に自転車を置き、あいつの方へと歩いていく。あの人も俺と同じ行動をとった。
「じゃ、全部の店を回りきれなくなるから、さっさと行くぜ」
 そう言って、あいつは歩き出した。まず最初の目的地は駅に一番近いところにあるCDショップ。ハピマテ祭りをしていたときも、この店で大量にハピマテを買った記憶がある。
「いやぁ、懐かしいなぁ・・・・・」
「本当に、懐かしい――」
 あの娘と彼女が口々に呟く。俺も心の中で同意する。
「今も楽しいだろ?楽しまないと」
 あいつがそう言う。あの娘と彼女はあいつに対して、違う類の笑みを見せた。
 次に俺はあの人の方を見る。数秒で俺に見つめられていることに気付くと、あの人は俺に対して「どうしたの?」というような表情を作った。それが作った表情なのか、本当にそおう思っているのかは定かではない。が、少なくとも今日のところは、妹さんについての話題を出すことはなさそうだった。


 CDショップに着き、俺達は新譜の棚を探した。
 案の定、すぐにセンスパは見つかった。数列に渡ってセンスパが並んでいる。この店は、アニソンの品揃えが良いということで俺達の間でだけであるが、有名だった。
「よし、じゃあさっそく・・・・・。分かってると思うけど、1枚ずつレジに運べよ」
 あいつの忠告に頷き、俺達は一人一枚、CDを手に取る。
 センスパはそのジャケットをじっと見つめていた。自分で自分のことを見つめるというのが、不思議なのだろう。
 俺が予め預けて置いた五千円札をポケットから出すと、センスパが一番最初にレジに並んだ。
 各々、一枚目のCDを購入して、俺達はすぐさま二枚目に取りかかる。幸いなことに客は疎らで、このような買い方をしても他の客に迷惑をかけることはなさそうだ。
 ――と、そこで俺の視線が一点に集中した。隣にいるあの人も気付いたようだ。
「あれ?何してるの?」
 視線の先の人物も、俺達に気付いたようでこちらに向かって歩いてきた。
 控えめな色をしたフレームの眼鏡を片手で直す仕草が、もうお馴染みのものになっている、女史が学校で会った服装のまま、そこにいた。
 女史はあいつとあの娘、そして彼女の方を見ると
「なんだか初めましての人が多いようだけど・・・・・」
と言って、軽く微笑んだ。
「ども、こいつの旧友っす」
 あいつは俺の肩を叩いてそう挨拶した。
「初めまして。右に同じです」
と冗談めかした口調であの娘も挨拶し、にこりと微笑む。
 一方、彼女の方は
「あ・・・・・、えっと、あの・・・・・、は、初めまして――」
とたどたどしい挨拶。初対面の人と話をするのが苦手なその性格は、アメリカに行っても変わっていなかったようだ、と思うと、俺の表情に笑みが浮かんだ。なんとも可愛らしい。
「それでさ――」
 あいつの方は初対面だろうと気にすることなく、昔から友達だったような馴れ馴れしさで女史にすり寄った。それが、あいつの長所であると俺は思う。
 あいつは女史に、センスパ祭りについて簡単に説明した。あいつの話を時折相づちを打ちながら聞いていた女史だったが、あいつの話が終わると一言、
「面白そうね」
と言って、棚からセンスパのCDを一枚取り、俺達に見せると微笑んだ。
 一般人である女史にそんな話をして軽蔑されるのではないかと心配したが、女史は思った以上に快くあいつの頼みを承諾してくれた。まぁ、その場にあの人が同伴していたこともあるのかもしれないが。
 女史に対して、あいつはにかっと笑顔を見せた。昔の自分達を見ているようだ、と俺は心の中で呟いた。


 発売日にセンスパを購入し、帰宅してからしばらくすると俺の携帯がうなり声をあげた。
 彼女からのメール。内容は要約すると、『明日、デートに行こう』というようなものだった。俺はもちろん、OKの返事。彼女が日本にいられるのは一週間しかなく、もう3日が過ぎようとしている。彼女から告白されたのは良いが、それだけではなんとも言えない。
 一方、センスパのデイリーランキングの方はとても良いとは言えない結果だった。デイリー分ではあるもののモーニング娘に1位を明け渡し、微妙な順位からのスタートであったが、ハレ晴レユカイのときは初登場が10位以下であったにも関わらず、週間で5位を取ることができたのだ。それに比べれば悪くないスタートと言ってもいいだろう。
 俺の隣でオリコンのサイトを見ていたセンスパは複雑な表情を見せていたが、俺が励ましたことによって少しだけ笑顔を見せてくれた。そのことに一番安心したのは、他でもない俺であった。


 そして、翌日の放課後である。
 駅前で彼女と待ち合わせをする。俺が自転車で向かうと、既に彼女はそこにいた。きっと、待ち合わせ時間の15分前にはそこでそうして待っていたのだと思う。俺は授業の関係でぎりぎりにしか到着できなかったが、彼女はそういう人だ。
「ごめん、お待たせ」
「ううん、待ってないよ――」
 彼女はそう言って、にこりと笑った。その仕草が、とても可愛い。俺の心臓が一度だけ、大きく鼓動を打った。
 彼女は俺をCDショップに連れて行った。昨日、あいつ達と来た店だ。
「私、アメリカに帰るまでに、円のお金を全部使わないといけないから・・・・・。また、センスパ買おう?」
 彼女の口からそんな発言が飛びだすとは夢にも思っていなかったが、俺はなるべく驚いた表情を見せないように心がける。微笑んでから頷き、棚にあるセンスパを手にとる、という仕草を選んだ。それが彼女に対する最前の接し方だと思ったからだ。
 と、その時。
「よう」
と後ろから急に声を掛けられ、俺は仰天した。彼女もそれは同じだったようで、俺と彼女はほぼ同時に、後ろを振り向くという動作を取った。
 そこに立っていたのは見慣れた5人組。そう、花鳥風月の五人だった。各々の手には、センスパが一枚ずつ握られている。彼女はそれにまた驚いたようだが、俺は先日のライブの件があったので、その点には驚かずにすんだ。
「おっ、そっちの彼女は久しぶりだな。日本に帰ってたの?」
 花鳥風月の一人が、彼女の方を見て微笑んだ。キラースマイルと言って良いだろう。
「え・・・・・、あ・・・・・、あの、はい・・・・・」
という彼女の控えめな返事に奴は笑って
「ははっ、なに緊張しちゃってんの?俺が格好良すぎるから?なんつって」
と言うと一転、表情を変えて
「日本に帰ってきた機会に、俺の女になっちゃう?」
「え?あ・・・・・、その、えと・・・・・・」
 奴らのジョークを彼女は素直に本気で受け止めてしまったようで、たじろぎながら俺の腕にぴったりと寄り添った。無意識な動作なのだろうが、俺の鼓動が高鳴る。
 花鳥風月はそんな彼女の様子を見て、笑いながら言った。
「冗談だよ冗談!もうそっちの彼のお手つきなんだろ?」


 その後、奴らは
「俺達は他の店に行くぜ。いいか?着いてくるなよ?」
と言い残し、店を出ていった。彼女は不思議そうな顔で手を振りながらそれを見ていた。
 俺と彼女もCDショップを出ると、今度は俺が彼女をアクセサリーショップに誘う。きらびやかな店内は控えめな彼女には似つかわしくないようなグッズばかり置いてあり、俺は失敗したかと思ったがその中で一つ、良いバッグを見つけた。
「何か買ってあげようか?」
 俺はそう尋ねる。
「え?でも、そんな・・・・・、いいよ――」
 彼女はそう答えるが、それも予想済みのことだった。俺は彼女にほほえみかけ、その後に
「じゃあ俺が選んであげるよ」
と言って、目をつけていたバッグを手に持つ。彼女の表情を見る限り、それを気に入ったようなので俺は安心する。俺の物を見る目も冴えてきたようだ。
「あ、ありがとう――」
という彼女を見ていると、彼女の思いで作りにと思ってこの店に入ったが、かえって俺の思いでを作ってしまった、と俺はその時思った。


 彼女とのデートを終え、俺は帰宅する。楽しい時間を過ごしたと、自分でも思う。
一息ついたところで、コンピュータの電源を投入し、いつもの巡回サイトを廻る。センスパも床に自分のノートパソコンを弄っている。お互いに何も話そうとしない。つまり、沈黙。ハードディスクの回転音と、時折発生する発熱用ファンの音だけが部屋に響いている状況だ。
 センスパとこうして一緒にいられるのも、そう何日もない。それであってこの状況はいかがなものかと自分で思うが、どうもきっかけがつかめない。そのため、終始を無言を保っているのだ。
 と、その時、センスパがぽつりと口を開いた。
「――夜、出かけないんですね」
「え?」
 突然話しかけられ、俺は驚いた。振り向くが、センスパは自分のノートパソコンのディスプレイに集中しており、こちらを見ない。その状態で話しかけてきたようだ。
「どういうこと?」
 俺は再度尋ねた。センスパは無表情を保ち、その様子を変えることもなく
「ガールフレンドのところに」
と補足する。
「ああ・・・・・」
「出かけないんですか?」
 再び同じ質問を繰り返す。どういう意図でそれを聞いているのか、俺には分からない。否、分かってはいるのだ。しかし、理解ができないふりをしている。誰に対してなのかは、分からないが。
「出かけない・・・・・」
 自分でも弱気な口調になってしまったと思う。しかしセンスパはそんなことを気にする様子もなく、さらに行動を変えることもせずに
「そうですか」
と一言。そのあと、沈黙が訪れる。
「・・・・・俺って中途半端な男だろ?」
 躍起になった発言だった。言ってから反省する。
 センスパもそんな一言に、一瞬だけ黙り込んでから
「そんなことないですよ」
と言って手を止め、初めて俺の方を見た。その目は何かを訴えるような視線で、しかしその表情に乱れはない。
 その反応に呆気にとられている俺相手にセンスパは続ける。
「中途半端って悪いことじゃないですよ。だってその後、どの方向に行くこともできるんですから」
 そう言ってからセンスパはコーヒーを一口すすった。その後、コーヒーカップを置くと、その場を立ち上がり、ベッドに腰掛ける。自分の身体をパソコンから遠ざけようとする仕草のようだ。つまり、俺との話に集中したいという意思表示であった。
「いいですか、前も言いましたが、私は貴方のことが好きです。愛しています」
センスパが突然言うので俺は驚くが、表情には出さない。
「だから、貴方の全て、どんな部分も好きになれます。でも、でもね――」
 そこで一度、言葉を句切る。次に出す言葉を選んでいるような様子。俺も黙って話が再開されるのを待った。それが最善策のはずだ。
「でも、それはみんな同じなんです」
 センスパは1ミクロンも表情を動かさずに、続けた。
アメリカからの彼女も、妹ちゃんも、姉さんも、貴方の全てを好きになれると思っているはずです。だから私はそのことで自慢もできませんし、それをアピールポイントにすることもできません。ただ、私達、つまり、貴方のことが好きな女性はみんな、貴方の全てを受け止める覚悟ができていること、それを忘れないでください」
 俺は何か言おうと口を開く。が、言葉が出てこない。
「だから――」
 俺が言葉を発するより前に、センスパが言葉を継いだ。
「そのことを忘れてただ一人しか見ずに、他は気にならない。他のことを考えられない。そのくせ自分で中途半端という――。それは、全員を代表して私は、許しませんよ?」
 強い口調ではなかった。しかし、威圧感は十分だった。センスパの言葉が身に染みる。たしかに俺は彼女をいかに楽しませるか、自分も一緒に楽しむかということしか考えていなかったかもしれない。だから、妹さんの気持ちを考えないようなことを本人に言ってしまったのかもしれないのだ。そんな俺のせいで妹さんが悲しんでいるであろうことは、考えるまでもない。
「・・・・・改めて訊きますけど、貴方が今、好きな人は誰ですか?」
 センスパの問いは、先ほどと種類が違うようだった。今回の問いは、センスパ自身が答えを欲している。そんな雰囲気がした。
 だが俺は、少し考えた後、ぽつりと答えてしまう。さっきから自分の何に自信がないのか分からないが、何故、こんなしゃべり方になってしまうのだろうか。
「・・・・・・分からない」
 センスパに対して良い答えになったとは、思っていない。



 12日の日曜日。彼女がアメリカに帰米するその日、俺と彼女はお馴染みとなった遊園地にいた。
 彼女が乗る便は夕方に日本を発つため、午前中はフリーであった。俺と彼女がこの遊園地を最後のデート地として選んだのは、彼女の方のリクエストだ。その頼みに、俺は快くOKを出した。
 ベンチに座って、売店で買ったクレープを食べる。隣に座る彼女は心なしかいつもよりめかし込んでいるように見える。
「美味しい――」
 彼女が言った。
「この納豆味っていうのはあんまり美味しくないな・・・・・」
「ふふ、そんなの頼むからだよ――」
 俺はそう言って笑う彼女の顔を見る。この笑顔とも、もうすぐ別れを告げなければならないと思うと、何故だかもの悲しい。ずっと日本にいてくれたらいいのに、と思うのは自然なことなのだろうか。
「ほっぺにクリームついてるよ」
 彼女はそう言うと、俺の顔にその繊細な指を近づける。そして俺の頬からクリームを拭うと、それを自分の口に運んだ。
「あ、ありがとう」
 その仕草に俺の中にまた感情が芽生える。今日の彼女は何処となく積極的だ。少なくとも、俺の目にはそう見える。目の前にいる彼女がもう一度、微笑んだ。とても魅力的だ。


 いくつかのアトラクションに乗り少し休憩した後、俺は彼女に言う。
「次はこれに行こうか」
「あ、うん、いいよ――」
 新しく出来たばかりのアトラクションで、2人乗りであるトロッコ型のコースターに乗り、隠された財宝を探す、というストーリーで進んでいくものだ。アップダウンが激しく楽しめると雑誌に載っていたのを思い出した。
 対して列も出来ておらず、俺と彼女はすぐにそれに乗ることができた。
 思ったより内部は暗く、左右の壁から圧迫感がある。
 トロッコが動き出した。
 きらきらと光る財宝を形取られたものや、財宝を狙ってその途中で息絶えたのだろうか、と想像させる骸骨などのが周りにおいてある。それには触れることができるが、持ち帰ることはできないように出来ていた。
 彼女は時々加速するトロッコに小さい悲鳴を上げたりしながら、俺の顔をのぞき込んだ。
「大丈夫・・・・・?」
 俺も自分で気付いていた。調子がおかしい。こんなところで自分の症状が現れるとは思っていなかった。暗いと言っても、まっ暗なわけではない。それなのに、何故、今・・・・・。今は大切な時なのに・・・・・
 その先を進むと、俺の調子は徐々に悪化していった。自分で意識すればするほど、そうなる。彼女も心配そうな顔で終始、俺の表情をのぞき込む。俺はそのたびに無理して笑顔を作ろうとしたが、無駄な努力だった。
 そうしているうちに、トロッコは終了する。最終的に大きなアップダウンは存在せずスリルはそれほどなかったが、それでも俺の体調は回復していない。
 外のベンチに俺達二人は座る。彼女は俺の頬に手を当てると
「大丈夫?」
ともう一度尋ねた。
 俺は頷くが、自分でも大丈夫でないことは分かっている。彼女が
「顔色悪いよ・・・・・?」
と言うと、俺の前髪を上にたくしあげ、そしてお互いの額同志を密着させた。当然だが、彼女の顔が近い。ほとんどキスと同じ。俺はそれだけで体温が上昇するような気がした。
「ちょっと熱あるみたい・・・・・」
 彼女がそう言ったので俺は驚く。
「え?本当に?」
「うん、私、向こうで看護専門の単位取ってるから――」
 彼女はそう言うと自分の姿勢を正した。
「横になって少し休んだ方がいいかも・・・・・」
「いや、大丈夫だよ」
「だめ・・・・・」
 彼女の控えめな制止も聞かず、俺は立ち上がろうとした。
「でも、横になる場所もないし・・・・・」
 そうは言うが、立ち上がってから立ちくらみがして、俺は再びベンチに腰を下ろした。彼女も心配そうな顔で
「ほら、やっぱり・・・・・」
というと、自分の膝の上に乗っていたバッグを横に除けた。俺がプレゼントしたものだ。
「ここに横になって・・・・・、いいよ・・・・・?」
「・・・・・え?」
 拍子抜けしている俺のことを、彼女はじっと見つめる。
「で、でも・・・・・」
「いいから」
 そう言う彼女は、ほんの少しだけ強い口調を見せた。ほんの少しでもこんな反応を見せる彼女に、俺は驚くが表情にそれは出さない。
 俺は控えめに
「うん・・・・・」
と言ってから、ゆっくりと横になる。膝枕状態。彼女の良い香りが俺の鼻を刺激する。こちらを見下ろして心配そうな顔をする彼女を見ているうちに、意識をしていないのに瞼が下がる。そして、目の前の光景が暗闇に変わって――


 再び目を開いた時、彼女は俺が目を閉じた時の姿勢のまま、目の前にいた。俺は急いで起きあがり時計を確認する。驚いたことに、あれから一時間以上が経過していた。
「ご、ごめん!俺、すっかり寝ちゃって・・・・・」
「いいんだよ――」
 おっとりした口調で彼女は言うが、寝ている俺を一時間も膝の上に載せていたのだ。その負担は、かなり大きかったはずである。しかし彼女は全く気にしている様子を出さない。
「具合はどう?」
「ああ、うん・・・・・、おかげで気分も良くなったよ」
 そう言ってから、俺は立ち上がってみる。先ほどのような立ちくらみはもう起こらない。彼女も立ち上がると、俺の額に真っ白なその手の平を当てた。
「うん、まだちょっと微熱があるけど・・・・・、大丈夫みたい。良かった。それが一番だから」
 そうは言っても、デートの時間はほとんど残されていない。俺は少し慌てた。最後のデートだったのに、相手にこんな思いをさせるなんて俺は最低な男だ。
「私は大丈夫だってば――」
 彼女はにこりと微笑んだ。その仕草にうっとりしている暇はない。俺はもう一度時計を確認してから、
「何かに乗ろうか」
と尋ねた。
「じゃあ――」
 俺の問いに彼女は少しだけ考えてから、この遊園地の中で一番目立つアトラクションを指さした。
「観覧車・・・・・」
「OK」
 その答えをある程度予想していた俺は、彼女を見てから微笑んだ。


 様々な思い出があるこの観覧車だが、今のところ俺の身体に異常は起こっていない。異常など起こしてたまるかと俺は自己の精神を安定させようと努めた。
「私、看護士さんになろうと思ってるんだ――」
 ゴンドラが観覧車のほぼ頂点に達したとき、今までの話題が尽きたところをすかさず彼女はそう言った。ほとんど呟きに近かったと思う。
「ああ、だから・・・・・」
 だからさっき、看護専門の単位を取っている、と言っていたのか。俺は心の中で言葉を続ける。病人の看病も手慣れていたはずだ。
「だから今、いろいろ勉強中で――」
 彼女は少しうつむいて、顔を赤らめた。自分の夢を他人に話すことが恥ずかしかったのだろうか、と俺は想像する。そんな彼女の気持ちを察して俺は
「俺も応援するよ」
となるべく優しい口調で言い、彼女の表情を伺った。
 彼女は俺の言葉に少し黙り込んだ後、顔を上げ、俺の顔をしっかりと見据えると一度言葉を飲み込み、その後、少しだけ重い口を開いた。
「・・・・・私が、アメリカに帰っても応援してくれる?」
「もちろん」
 俺がすぐそう答えると、彼女の顔に再び笑顔がよみがえった。


 観覧車を降りてから、俺はすぐに園内のガイドマップを開いた。
「次は何処に行きたい?」
 そう尋ねると彼女は少しだけ考え込んで、園内にあった時計をちらりと見ると、ぽつりと何かを呟いた。
「え?何?」
 上手く聞き取れなかったため、俺はそう訊く。彼女は少しだけ声を大きくして、もう一度繰り返した。
「空港・・・・・」


 空港に帰る途中の電車。俺と彼女は空いている座席に座っている。会話は、ない。無言の空気が続く。どちらからとも話を切りだしにくい雰囲気と言うのが適切な表現だろう。
「もう具合は大丈夫?」
 その空気に耐えかねた彼女が俺に尋ねる。
「え、ああ、うん。おかげさまで――」
「そう、なら良かった・・・・・」
 俺が答え、彼女が応じる。それで会話終了。無言の再来。この空気は、なかなか辛いものがある。それは彼女も同じであることは分かっているが、そうであっても俺は何か話題を提示することができない。
「私が帰ったら――」
 彼女が突然、言葉を口に出したので俺は少し驚いた。が、その内容にさらに驚くことになる。
「私が帰ったら、私のこと、忘れてもいいよ・・・・・」
「・・・・・え?」
 俺が声を出した時、電車がちょうど駅に到着した。ドアが開く。彼女は俺の疑問符が聞こえなかったかのように立ち上がると
「さ、降りなききゃ――」
と言って、俺の手をひいた。俺はされるがままに、電車から降りた。


 空港のロビーには既にメンバーが揃っていた。メンバーというのは、あいつ、あの娘、あの人、そしてセンスパのことである。彼女を迎える時にいた妹さんは、その場にはいない。俺と彼女のキスシーンを目撃してしまったのだ。当然と言えば当然だろう。
 飛行機の搭乗時間まではあと20分ほどある。それを俺が腕時計で確認したところで、あいつが
「これでお別れかぁ・・・・・、ま、元気でな!」
としんみりした口調で言った。彼女は笑顔でそれに頷く。
「・・・・・それで、ちょっとお願いがあるんだけど良いかな」
 次にあの人が言葉を発した。彼女は
「なに?」
と言ってあの人の方を見る。あの人はポーカーフェイスを崩さずに、続けた。
「妹がさ、今日は来れないっていうからパソコンのメールアドレスがあれば、教えてほしいそうなんだ。メールなら日米間でも無料だからって。お願いできる?」
「いいけど――」
 彼女はそう言いながらバッグからメモ用紙を取り出すとさらさらとペンを滑らせ、それを切り取って二回折り畳んだ。
「あの、妹さんに見せるまでこのメモ帳開かないで?その、つまり、妹さんにだけ見せてほしいの・・・・・。失礼なお願いだけど・・・・・、いい?」
 あの人は彼女からメールアドレスが書かれているメモ用紙を受け取るとそれを開かずにポケットにしまって
「OK、約束する」
「あ、じゃあ俺にも教えてよ」
 あいつが名乗り出た。あの娘と俺も
「私にも教えて?」
「じゃあ俺も――」
と便乗する。が、彼女は自然な仕草で右手人差し指を口の前に持ってくると、上目遣いで
「みんなには、教えられない・・・・・、理由は言えないけど・・・・・、ごめんなさい・・・・・」
と、申し訳なさそうに謝った。そのそぶりが魅力的すぎて、俺は頷かざるをえない。それはあいつも同じのようだ。彼女の言うことに関して深い散策は無用である。世の中の7割の男は、この場面に立たされたらそう思うはずだ。


 そしてまもなく、時間になった。交わしていた談笑もしだいにしんみりとしてくる。俺は時計を確認する。搭乗時間まで、あと3分ほどになっている。
 あいつ、あの娘、あの人、そしてセンスパが口々に別れを告げる。その一つ一つに、彼女は「ありがとう」と微笑んだ。
 最後に俺が残る。あいつが意味ありげに俺の肩をぽんと叩いた。俺は一歩前に、つまり彼女に近くに来て、
「あの・・・・・、向こうに行っても頑張ってね」
とたどたどしく言った。何も言葉を考えていなかったことを少し後悔する。それでも彼女は
「うん、ありがとう」
と微笑んでくれた。
 俺は、頭に思い浮かんだ言葉を言うかどうか、少し迷った。迷ったが、俺は口を開く。
「あのさ・・・・・、俺、君のことを忘れたりしないよ、絶対に」
「・・・・・」
 先ほど電車で、「私のこと、忘れてもいいよ」と言われたことが俺の頭の中に鮮明に残っていたのだ。彼女は俺の言葉に、黙り込んでしまう。そんな彼女に、俺は続けた。
「でも、君のことをずっと引きずったりしない。それで、良い?」
 この言葉に、彼女の顔が少し、明るくなったような気がした。
「・・・・・うん、そうでいてくれれば、嬉しい」
 やはり、と俺は思った。彼女は、自分が原因で俺が変わってしまうことを恐れたのだと思う。と、いうより、優しい彼女はそれを心配してくれていたのだ。そのため俺はその言葉を選んで使った。それは、吉と出たようだ。
「ありがとう、楽しかったよ」
 俺は最後にそう付け加えた。
 そのとき、アナウンスが鳴った。搭乗開始のアナウンス。いよいよこれで、彼女ともお別れだ。俺の本心が心の中でそう呟いた。
 彼女はそのアナウンスを聞いて、寂しそうな表情を見せる。それは、俺達も同じだったはずだ。しかし無情にも、アナウンスは言葉を繰り返す。
 連絡の声が聞こえなくなったところで、彼女は俺の方に近づいてきた。
 俺は何が起こるのか、全く分からなかった。本当に。
 そして、彼女は目を閉じた。
 時間が、止まった。
 彼女は俺の頬をその両手で優しく包むと、ゆっくりと形の整ったその顔を近づける。俺は驚いたが、どうすることもできない。彼女はそのまま、その唇を、俺の唇に密着させた。
 人目を気にしない、長い、ロマンティックなキスだった。
 5秒ほどだったのだろうが、非常に時間が長く感じられた。そして彼女が見せた、今までで一番積極的な行動に、俺は少なからず感動していた。そのキスはとても深くて、クリーミィで、完璧だった。
 彼女は顔を離す。そして、恥ずかしそうに、しかし最高の笑顔で微笑んだ。
 そのままゲートの方に向かっていく。俺もそちらへと歩く。気を利かせているのか、他の4人はついてこない。
「さよなら・・・・・」
 彼女はそう言って、片手をあげ、ひらひらと振る。俺も同じ動作をとる。
 そして彼女は最後に一言、付け加えた。
「またね――」



 運命の日である。
 今日は、運命の日だ。それは何かというと、つまり、センスパのウィークリーランキング発表日。それが、今日だ。
 去年、ハピマテはウィークリーの発表日にいなくなってしまった。自分が1位になれなかったことを確認したかのように、俺の前からいなくなってしまった。それを基本として物の世界が動いているとすれば、センスパも今日、俺の前から消えてしまうことになる。
 しかしセンスパは、今日が運命の日だということを忘れたかのように、普段通りの生活をしていた。いつものように早起きをして寝坊の俺を起こし、朝ご飯を一緒に食べ、そして俺を高校へと送りだしてくれた。
 高校で授業を受けている最中も、俺の魂はその場になかったようなものだった。センスパのことが気にかかった。もしかしたら、俺が家に帰るともうセンスパはいないのではないか。その不安を抱えたのは二度目だったが、今回はその可能性が大きかったこともあって、俺は心臓が締め付けられる思いだった。
 不安な授業を終え、俺は全速力で自転車をこいで家に帰った。
「ただいま」
 そう言って玄関のドアを開ける。中からは、これも普段通り
「おかえりなさい」
という鋭く洗練されたようなセンスパの声が帰ってきた。俺はひとまず、ほっと胸をなで下ろす。
「今日は早かったんですね」
 センスパはそう言って、顔を出した。何故かエプロンを着ている。そのことを俺が尋ねると、センスパは
「クッキーを作ってみたんです」
と答えた。俺は急いで靴を脱ぎ、家に上がる。ダイニングに入ると、甘い良い匂いが部屋中にたちこめていた。
「これなんです。本を身ながら作ったので、美味しいかどうかは分からないんですけど・・・・・」
 そう言ってセンスパが差し出したクッキーはちょうど良い焦げ目がついており、手作り感があふれ、とても美味しそうだった。
「じゃあ、いただきます・・・・・」
 俺はそう言ってそれを一つ口に運ぶ。そして、
「うん、甘くて美味しい」
と笑う。その言葉に、センスパもにっこりと微笑んだ。


 夜になり、俺とセンスパはいつものように部屋に入って、テレビを見る。否、テレビはただかけていあるだけで、二人ともそちらに目はやっていない。センスパは自分のノートパソコンでブラウジングを楽しんでいるようだったし、俺は読めもしない分厚い本に目を滑らせていた。
 俺は時計を確認する。ウィークリーランキング発表まで、あと1時間もない。
「あの」
と、センスパが控えめに俺に話しかけてきた。俺は回転椅子で後ろを向き、センスパの方を見る。
「なに?」
「また、質問していいですか?」
 そういうセンスパの顔は、真剣だ。
「何の?」
「この前と同じ質問です」
「・・・・・いいよ」
 俺は短く答える。センスパからの質問はほぼ100%、予想できていた。そしてその答えもほぼ100%、固まっていた。そしてセンスパの口からは、予想通り、一字一句違わない質問がゆっくりと飛びだした。
「貴方が今、好きなのは、誰ですか?」
 俺は黙り込んで、考えていた回答を頭の中で繰り返す。散々考え、センスパのことを待たせた末に導き出した答えが、これだ。
「彼女と妹さんとセンスパと――、それから、ハピマテ
 俺の発音は、今までにないくらいはっきりしていたと思う。それが、俺の意志の強固さを表現していたはずだ。
「こんな答えで納得するとは思わないけど――」
と俺が口に出すと、センスパは
「いえ、納得しました」
と言って、笑った。
「私が想定していた中で、最善の答えです」
 そう言った後、センスパはリモコンを使ってテレビの電源を消し、次に自分のコンピュータの電源を切った。騒がしかった音声がとたんに排除され、無音が訪れた。
「良かった・・・・・、これで貴方のために、これをすることができます――」
「・・・・・え?」
 センスパは意味深にそう呟いた後、俺のコンピュータの方を見る。すると、触れてもいないのに自然にその電源が入る。俺は驚くが、センスパは表情を崩さない。
 ハードディスクが回転し、OSが読み込まれる。そして見慣れたデスクトップが現れる。
 俺は何も操作しない。センスパが無言の視線で「触るな」と訴えかけていた。
 完全にデスクトップが現れると次にコンピュータはソフトウェアを1つ自動起動する。スカイプという音声通話ソフトだ。俺はそんな設定をした覚えはない。
 そして、コールがかかった。コンピュータは自動認識し、操作をしていないのにそれを受信する。
 次の瞬間、スピーカーから音声が発せられた。
 忘れるはずもないその声に、俺は息をするのを忘れるほど驚いた。
 一瞬で自己をコントロールすることを覚えた俺は振り返り、センスパの方を見る。
「・・・・・俺、喋っていいの?」
「はい、どうぞ」
 センスパに言われ、俺は絶対に使わないだろうと思っていたハンドマイクを録りだし、コンピュータのプラグに差し込む。ぶつり、という鈍い音がして本体がそれを認識した。
 息を吸う。呼吸を整える。
 そうした後に、俺は通話相手に話しかけた。
 ゆっくりと、
 通常の声を装って。
ハピマテ・・・・・、なのか?」


 俺の周りで渦巻いていた時間が止まったかのように思われた。
「聞こえる?聞こえるのね?」
という声が、スピーカーから響いている。その声は紛れもなく、1年前、俺が愛した女の子、ハピマテのものだった。
「うん、聞こえてるよ」
 俺はマイクに向かって話す。声が震えているのが自分でも確認できる。自分の鼓動の高鳴りが、確かに確認できる。
「良かった・・・・・」
 スピーカーからの声がそう言った。システムトラブルが起こらなくて良かった、という意味のようだ。そして、声の主は続けた。
「久しぶり。私、ハピマテだよ。覚えててくれたみたいだね」
 ハピマテだ。間違いない。俺の記憶に刻みついているハピマテだった。俺はつい、
「ど、どうして・・・・・」
という声を漏らした。その俺の声に、ハピマテが答えを出す。
「センスパのおかげだよ」
 そこで一度、含み笑いをする。懐かしい、笑い声だった。
「センスパがいろいろ申請書とかを出してくれたんだ。私にはよく分からないんだけど・・・・・。だからこうやって、少しだけだけど会話ができることになったの」
「・・・・・そうなんだ」
 俺の顔が、ふっと笑顔になる。さっきまではこわばった表情をしていただろう。それの力が、一気に抜けた。
「本当に久しぶりだ」
「うん、なんか照れちゃうな」
 それは俺も同じだよ。そう言おうとした時、
「15分だけです」
とセンスパが言った。冷静な声だ。
「今からだと、あと13分25秒ですね。話は急いだ方がいいです」
 俺はセンスパに礼を言って、マイクを握り直す。
「しっかりものの妹でしょ?」
「まったくだ」
 俺はそう言って笑った。
 その後、少しだけ沈黙があった。お互い、話題を探しているようだった。
「私は全然寂しくなかったよ」
 ハピマテが言う。
「あなたが頻繁に私を聴いてくれてたから」
「俺は寂しかったよ、ハピマテに会えなくて」
 俺の言葉に、ハピマテは一瞬、一瞬だけ次の言葉を言うのを躊躇した。が、言葉は続いた。
「・・・・・私も本当のこというと、寂しかったな」
「当然だよ。そうであって、当たり前なんだ」
「でも今、私、幸せだよ?」
 その言葉を聞いて、俺は笑った。
「俺もだ」


「そっちの世界はどんな感じなの?」
 少し会話を続けてそれが途切れたのを見計らい、俺は尋ねる。
「うーん、そっちの世界とは形そのものが違うから、説明しにくいんだけど・・・・・。妹ができてから、凄く楽しかったよ」
「それは良かった」
「・・・・・私ね、あなたのこと、一回も忘れなかったよ?」
 ハピマテが声を少しだけ変える。きっと、意図的なものではなかったと思う。俺が
「もちろん、俺もさ」
と答えると、向こうは安心したような口調で
「良かったぁ・・・・・」
と優しい声を漏らした。その声が懐かしい。何もかもが、懐かしい。
「大好きだよ、ハピマテ。今でも」
「私も大好き」
 二人で改めて、愛を確かめ合う。
「絶対私はこっちでも死なない。ずっと、あなたを覚えてる」
 そのしっかりとした声で、スピーカーごしにハピマテの表情が分かるような気がした。こちらの世界にいる間、何度も見せてくれた、あの気合いに満ちあふれた表情をしているのだと思う。
「ねぇ・・・・・、抱きしめて?」
 ハピマテが細い声で言った。
「どうやって?」
「私のCDを、ぎゅっと抱きしめて・・・・・」
「分かった」
 俺はCDラックに大事にしまわれていたハピマテを取り出した。全ての始まりだった五月度。俺はそれを、目を閉じてから抱きしめた。
 無機質のプラスティックから、何故か暖かみを感じる。スピーカーから声はしない。しないが、きっとハピマテも俺の暖かみを感じてくれているはずだ。
「・・・・・また、会いたいよ」
「俺も、会いたい」
「会えるかな?」
 不安そうなハピマテを、俺は
「大丈夫、ハピマテは歴史に根付いてずっと生き続けるんだ。だから、きっと会える」
と言って励ました。ハピマテの笑い声が聞こえる。それだけで、俺は幸せだった。
「あ、もう――」
 ハピマテが声を漏らす。
「なに?」
と俺が尋ねても、ハピマテはそれに対して答えを出さない。その代わりに、こう言った。
「――ありがとう」
「え?」
 俺は再び聞き返した。が、ハピマテにそれは届いていないようだった。
「・・・・・大好き」
 接続が、切れた。
 コンピュータが自動でシャットダウンを始める。放心している俺に、センスパがはっきりと鋭く発音した。
「時間です」


 それからどのくらい経っただろう。時間の流れさえも感じられずにいた俺がはっと気が付くと、既に時間がきていた。
 俺はコンピュータの電源を入れて、オリコンのサイトを開く。マウスを操作してウィークリーランキングのページを表示した。結果の画面にはまだ先週のものが記されている。
 手招きをしてセンスパを呼んだ。センスパが俺の隣に来たのを見てから、時計の秒針を確認する。この日のために買った電波時計だ。
 そしてその時間になったとき、俺は更新ボタンを押した。俺とセンスパの視線は、画面に釘付けだった。


           (62話から69話まで掲載)