10月4日。
 世間では何のことはない、ただの水曜日と認知されている今日だが俺にとっては指折り数えて待ちに待った特別な日だと言えた。
 そう、アニメ版ネギま二期の放送日である。
 その日、俺は学校が終わると全速力で自転車を走らせ家に戻ると、部屋にあるテレビの前に座り、そしてその時間をひたすら待っていた。
 某ラジオで放送されたため、既にセンスパがどのような曲なのかは知っていた。それに、流れていた情報から、今日放送される第一話分は主題歌が流れない、ということも分かっていた。
 だが、俺はこの日を楽しみにしていたのだ。
 センスパが好きだから、ということも勿論あったが、それだけではない。
 ハピマテと出会ってから、俺は素直にこの作品の虜になっていた。それは、認めざるを得ない事実であろう。
「センスパは、台詞が入ってるんだよね」
「はい、二番が台詞になっているはずです」
 センスパは、俺の問いに正確な答えを出してくれた。俺は続けて言う。
「うーん、賛否両論になりそうだ・・・・・」
 事実、ネットの中でセンスパを聴いた人達の反応は様々だった。
 サビの部分に共感する者、台詞を肯定する者に、そして否定する者。
 アニメの絵柄が新しくなったことに対してもそうだったが、今回は主題歌に関しても文字通り、賛否両論であると俺は思っていた。
「貴方は、どっちですか?」
 突然センスパに尋ねられ、俺は少し驚く。
「え?何が?」
「貴方は私について賛なのか否なのか、という意味です」
 俺がセンスパについて賛なのか否なのか・・・・・
 センスパの言葉を自分の心の中で復唱してから、俺は笑顔を作ってこう答えた。
「もちろん、賛の方だよ」
 その言葉を聞いた後のセンスパの表情がとても明るいものだったのは言うまでもない。


 翌日。
 いつも通り登校し教室に入ると、俺の席の横にあの人が立っていた。
「おはよう」
と挨拶をするとあの人は、返答もなしに話を始めた。
「はっきり言おう。今のままの盛り上がりでは、センスパはオリコン1位になれない」
 それだけの言葉が、俺の胸に響いた。
 それは、俺も考えていたことだった。
「確かに、VIPではハルヒ祭りが終わったあとだから士気も上がらないだろうね。アニソン板にそれらしいスレがあるけど、過疎過ぎる」
 俺はそう言った後、でも、と付け加える。
「11月8日の週は本当に穴場なんだ。ハピマテ5月度程度売れれば、1位になることができる。その週を逃すわけにはいかないと思う」
 あの人は俺の話を神妙な顔つきで聞いている。俺は最後にこう言う。
「――それだから、このチャンスを利用してセンスパを一位にしたい。なんとしても。」
 俺の話の後も、しばらく無言を保っていたあの人が、一度目を細めてから呟くように言った。
「君、どうしてもセンスパを一位にしたい理由があるみたいだね。ただの祭りに参加するような意気込みじゃなく・・・・・。何があるんだい?」
「それは――」
 俺は言葉に詰まった。センスパが、音楽の世界からやってきて、そのセンスパとの約束を守るために――なんて言えるはずないし、言ってはいけないことのような気もする。
「――何も、ないよ」
 自分でも無理なごまかしだったと思う。しかし、今の俺にはどうすることもできなかったのだ。
「――そうかい」
 あの人はそう言って、ふっと笑った。そして、口を開いた。
「今日、暇ならだけど、僕の家にこないかい?・・・・・面白いものがあるんだ」

 放課後。俺は家には帰らず直接あの人の家へとやってきた。これが三度目の訪問である。今でも、初めてあの人の部屋を目の当たりにしたときのインパクトの強さは忘れられない。
「さぁ」
 あの人はドアを開けると俺を招き入れた。俺もまるで小学生のように
「お邪魔します・・・・・・」
と腰を低くして入っていく。すると部屋の奥から
「おかえり〜」
という声がしたかと思うと、妹さんがクマの顔が刺繍してあるエプロンを着てぱたぱたと出てきた。片手には料理で使うと思われるお玉。その風貌はまるで幼妻である。
「あ、いらっしゃい〜」
 妹さんは俺がいることに気付くとそう言ってにこりと笑った。俺も釣られて微笑み返す。
「じゃあ僕の部屋に・・・・・・、あ、何か飲み物が欲しいかな」
 あの人は自分の部屋のドアを開けた後、妹さんに注文をする。妹さんは笑ったままで
「さっきコーヒー淹れたんだけど、それでいい?」
と尋ね返す。
「いや、彼は紅茶しか飲めないんだ。そうだよね?」
と今度は俺に尋ねるあの人。俺が
「いや、コーヒーを頂くよ。淹れなおしてもらうのは悪いから」
と答えると妹さんは少し舌たらずの声で返事をして、ダイニングの方へ消えていった。
「さて、どうぞ」
 あの人に連れられて入ったその部屋は、初めて訪問した時となんら変わっていなかった。いや、多少、レベルアップしたと言うべきか。
 ともかく、その外見からは想像できないようなポスターやフィギュアの山。そしてそこに無機質に置かれたデスクトップ型パソコンが一台。あの人は自分の鞄を置くと、すぐにその電源を入れた。ハードディスクがカリカリと音を刻み、コンピュータが立ち上がる。
「はぁい、コーヒーですよ〜」
 妹さんはコーヒーカップを2つ乗せたお盆を持って部屋に何の抵抗もなく入ってきた。
 俺はコーヒーを受け取って一口だけすする。やはり、あまりコーヒーという飲み物は得意でない。
 状況をごまかすために、俺は妹さんに尋ねる。
「もしかして、妹さんもこういう趣味もってる・・・・・、わけじゃないよね」
「私はそうじゃないですよ〜」
 妹さんは笑いながらそう答え、続けた。
「でも、兄がこうであっても嫌じゃないし、他の男の人の趣味にケチを付けたりもしません。私って、そういう性格なんですよ〜」
 ・・・・・確かにそういう性格でなければあの人の妹は務まらないかもしれない。
「それでは、ごゆっくり〜」
 妹さんはそう言うとすぐに席を外した。頭の回る、空気をよく読んだ退室だと俺は思う。あの人が何か秘密の話をするような、そんな雰囲気を放出していたからである。
「さっそくだけど、これを見てほしい――」
 妹さんが退室したのを確認したかのように、あの人は話し始めた。話ながらも目はコンピュータのディスプレイに向かっているし、手はマウスを操作している。
「ちょっと面白いページを見つけてね・・・・・。これはGoogleでサーチしても引っかからない、アンダーグラウンドに近いサイトみたいなんだ。アクセスカウンタも4桁。僕もブラウジングをしてリンクを辿っているうちに、たまたま見つけたんだけど・・・・・」
 片仮名ばかりの言葉で普通の人が聞いたら何を言っているか分からないかもしれない、そんな台詞だったが、俺には意味が理解できる。
「ほら、これ」
 あの人が示したウェブサイトを俺は横から眺める。
 そして、俺は仰天した。
 そこには、『物と人の世界間』や『物後の世界』、『物の人間化』などという単語が並んでいたからだ。――もちろん、まっさきに俺の脳裏によぎったのはセンスパやハピマテの姿であった。
 あの人は、俺がそのページの上部にあるサイト解説を読んだことを確かめたように話を再開する。
「こういった不思議な事例がいくつもあるらしいんだ。僕も最初は信じていなかった。だけど、こんなのがあったんだ――」
 あの人はそのサイトの中の『発見事例、公募』というリンクをダブルクリックする。
 出てきたのは、数々の体験談のような報告。掲示板やメールで募集したものをまとめて掲載しているようだ。投稿者の名前(ハンドルネームである)の後には括弧書きがあり、その中にはAmericaやGermanyなどといった。その本文は翻訳後のようなたどたどしい日本語であるが、何を言いたいかは理解できた。
 物の世界から現れたという人物が突然やってきて、自分をその業界で一番にしてほしいと言ってきた、という内容が2つ並んでいた。
「こういう似たような証言が世界の違う国から2件報告されている。そしてこれは、ハピマテ祭りと酷似しているね」
 あの人は自分の眼鏡をくいっと人差し指で動かした。
「これの本サイトの管理人はアメリカ人なんだ。その人は語学力が大分あるようで、友人にも手伝って貰って色々な言語で同じ内容のページを制作したと言っている。これは見ての通り、日本語版のサイトだ」
 あの人の説明もよそに、俺はその証言を何度も繰り返し読んでいた。考えてみれば不思議ではない。ハピマテもセンスパも、物の世界から人の世界へと期限付きでやってくるという行動は珍しくない、というようなことを言っていた。
「この証言者は二人とも、その“物”の願いを叶えるために全力を尽くしたと言っている。――それで君は、これについてどう思う?」
 あの人の問いに、俺は答えない。
 俺が答えないことを見越したようにあの人は、すぐに質問を変えた。その質問は、鋭い槍のように俺にストレートに突き刺さった。
「もっと突っ込んだ質問をすると、君はこれと同じ体験をした・・・・・、いや、今もしているんじゃないかと思ってね。どうだい?」
 ――沈黙。
「・・・・・いや、知らない」
 長い沈黙が続いたが、俺はそう答えた。
 真実を伝えると、センスパがいなくなるのではないかと不安だった。
 あの人はしばらく真剣な顔をした後、ふっと表情を崩したかと思うと
「そうかい」
と言った。
 永遠とも思われる沈黙が続いたのは、言うまでもないことだろう。


 その後、妹さんも混ざって少し雑談やゲームをした(任天堂のアクションゲームをしたのだが、意外なことに妹さんが強すぎて一人勝ち状態だった)。
 帰宅した俺を出迎えてくれたのは、いつも通りセンスパだった。
「おかえりなさい。ご飯を作っておきました。お母さん、今日は帰りが遅いそうです」
 母親の帰りが遅いのは珍しいことではなかった。俺は部屋で動きやすいジャージに着替えるとダイニングに降りてきて箸を持ち、手を合わせた。
 夕飯を食べながら、俺はできるだけ何気ないような調子でセンスパに尋ねる。
「センスパ、もしもだけど、俺が物の世界のことを他人に漏らしたらどうなる?」
 センスパは口をもぐもぐと動かし中身をごくんと飲み込んでから言う。
「どうなる、というと?」
「センスパが元の世界に帰っちゃったりとか、しない?」
「それはありません」
 お茶を口にするセンスパは、話を続ける。
「姉さんのことで分かっていると思いますが、基本的に私は定めた期限にならない限り帰りません。というか、帰れないんです」
「じゃあ、俺は知っちゃまずいことってある?例えば、センスパがこっちに来た目的とか・・・・・」
 俺は問いを連ねた。
「それは私がオリコン1位になるためですが・・・・・」
「それだけ?」
「えっと・・・・・」
俺の重ねる問いにセンスパは嫌な顔一つせずに答えてくれる。少し口ごもった後、センスパは真顔に戻って続けた。
「正直な話をすると、それだけではありません。それを教えても、まずいことではないです。でも、教えません」
「なんで?」
「私が・・・・・、恥ずかしいからです・・・・・」
 頬をさっと赤らめたセンスパは、照れ隠しのようにご飯に手を伸ばした。何に照れているのか分からないが、無理して聞くこともない。
 しかし俺の好奇心はとどまらない。既に目的は、あの人との会話から、センスパの世界に対する興味へと移り変わっていた。
「じゃあ、センスパのノートパソコンは?なんか、俺が見ちゃいけないみたいだけど・・・・・」
「あれにも、物の世界について知られると私が消えるような、そんなファイルは入っていません。・・・・・でも、個人的に見せられないんです」
「そっか・・・・・」
 それは、少し見たい気もする。
「物の世界について入っていることと言えば、物の世界の概念について、とかですかね。私が書いた文章ですが・・・・・」
「何それ?見てみたいなぁ」
 俺がそう漏らすと、センスパは少し悩んでから
「それはちょっと・・・・・、あんまり見られたくないですし・・・・・」
と答える。センスパはプライドが高いように見える。それと比例するように、自分のことを知られたくない、という気持ちも強いのだろうか。
 俺はそう思いつつも、センスパのノートパソコンの中身について、密かな興味を抱いていた。そのことは多分、センスパには知られていない。その証拠にその夜、センスパはいたって普通に俺の部屋でパソコンを操っていた。俺の目線も気にせずに。
 もちろん、センスパのプライバシーを侵害するつもりはない。しかし、そういう興味というのは、誰にでもあることなのでは、ないだろうか――


 翌日。行きたくもない学校へ行き退屈な授業を受け、その間にある休み時間での友人との交友を唯一の楽しみにしながら放課後を今か今かと待ちわびていた俺は昼休み、少しだけ、驚きの出来事に出会うことになる。
「ねぇ、ちょっと・・・・・」
 昼休みに弁当を食べ終わった俺にそう手招きをしたのは、いつも通りの眼鏡を掛けた女史であった。
 女史に頼まれ生徒会執行部に入部した俺だが、結局簡単な書類を書いた以外、俺はまだ生徒会らしい仕事をしていなかった。
 そんな俺に女史はこう告げる。
「ちょっと今から、生徒会室に来てほしいんだけど」
 やっとなにか生徒会らしい活動をするのだろうか、と俺は思いつつ女史に連れられて生徒会室へと向かった。
 普段はほとんど鍵がかかっており生徒会の活動がないとき以外は開かずの間となっているその部屋の扉は、今日の昼休みに限ってのことか、いとも簡単に開いた。
 そしてその中には、これも今日に限ってのことなのかは分からないが、一人の高学年らしい女子生徒が待ちくたびれたような仕草をしながら、そこにいた。
「お待たせしました、先輩・・・・・」
 女史はそう言った。よく見てから、俺もこの先輩が誰なのか思い出した。集会の時など、毎回のように司会を行っているから記憶にも残る先輩である。
 すらりとした身体と透き通った声が特徴的である、と思う。女史とこの先輩は執行部内でも親しいようで微笑を交えながら多少の会話をすませ、そうしてから女史は先輩にひそひそと耳打ちをした。
 連れてこられたわりにまったく仲間はずれな俺は、特に何をするわけでもなくその場で二人のやりとりを眺めていた。
 すると女史は驚いたことに頬を微量ながら紅潮させながら、
「それじゃあ・・・・・」
と先輩に言い残して生徒会室去っていった。
 どうしていいか分からない俺に先輩は優しく、透き通るような声で語りかけるように言った。
「あなたのクラスに、えらく頭の良い男子がいるでしょう?」
 俺は考える。いや、考える必要もなかった。それに該当するクラスメイトは、あの人しかいない。
 俺があの人の名前を挙げると先輩は微笑んで
「そう、その彼よ」
と囁くように言ってから、こう続けた。
「その彼のことが、好きなのよ」
「・・・・・へ?」
 すっとんきょうな声をあげてしまった俺を見て先輩は再び顔に笑みを浮かべた。
「・・・・・あの人のことを、ですか?――誰が?」
 俺はたまらず尋ねる。この口調では、この先輩が、あの人のことを好いている、という話ではなさそうだ。
「だから、あの子が」
 先輩は答えた。あの子、というと、この状況ではさっきまでこの場にいた一名しか該当しないであろう。
「――女史が、ですか?」
「そう」
 俺の質問に先輩は頷く。
 女史は、あの人が好き・・・・・・
 何も驚くことではない。あの人は特に女の子からモテる。それは中学校から不動のことであったから、あの女史が、あの人に対してそういう感情を持っていても不思議ではない。
「だからね――」
 俺の思考を中断させるように、先輩は言葉を継いだ。
「あなた、その彼と仲が良いでしょう?だからそんなあなたに、彼と上手く付き合いが持てるように、手を貸してほしいっていうこと」
 ――女史が、そんなことを俺に頼め、と言ったんですか?
「その通りよ。面と向かってじゃ、恥ずかしかったんだと思うわ」
 先輩は、みたび俺にほほえみかけた。俺は考える。
――あの人と女史か。眼鏡カップルでお似合いかな。美男美女のカップルだし・・・・・
「はい」
 俺は顔をあげて、先輩の方を見てこちらも笑うと、こう言った。
「分かりました。あの人には何か言って自然に二人でデートに行けるように取りはからってみます」
 その言葉を聞いて先輩は予想通り、というような反応をした後、
「よろしくね。私の大切な後輩のためだから」
と言い、
「あの子は先に教室に戻るって。ふふ、ご苦労様」
と俺にその白い歯を向けた。
 俺は、失礼します、と先輩に告げて生徒会室を去ろうとした。
 その時、先輩は俺の去り際に、俺の背中に向かって、優しく言った。その甘い声は、何者をも凌駕してしまうような美しさだった、と俺は後になって思う。
「あなた――、ふふ、少し残念そうね」


「――と、いうわけなんだ」
 昼休みが終わる間際、俺はあの人に話しかけ、明日の土曜日、女史と二人きりで何処かに出かけて欲しい、という趣旨の事を告げた。
 あの人は無言で俺の話を聞いていたが、俺が話し終えた後、少し考え込んでから
「何故そんな事を君が僕に対して頼んでいるのかは、あえて尋ねないことにして――」
 そこであの人は一度言葉を句切って
「分かった。君が言った通りのことを、明日しよう」
と言った。
「ありがとう、よろしく」
 俺がそう言った時、チャイムが鳴って教師が教室に入ってきた。俺は慌てて席についた。


 翌日。
 あの人と女史のデートが気になり、こっそり見に行こうかとも思ったが、せっかく二人きりなのだから水を差しては悪い。それにあの人は三次元には興味なしなのだから、それほど気になることでもないだろう。女史の恋は叶いそうにない。可哀想ではあるが、あの人の性格からして仕方がないことなのだ。
 俺はそう思い、一週間待ちに待った休日を寝坊してスタートさせようとしていた。
 が、俺のその願いも叶うことはなかった。
 昼過ぎまで寝ている予定であったが、朝9時になると俺は目を覚ますことになった。
「朝です、起きてください。おはようございます、早く、早く起きてください!」
とセンスパにたたき起こされたからだ。
「今日は12時まで寝てる予定なんだよ・・・・・」
 俺はそう言って布団を被るがセンスパはそれをはぎ取った。
「いいから早く起きてください!」
 一文字ずつ区切って言い聞かせるようにそう言ったセンスパに熱気に負け、俺は起きあがった。
「それじゃあ、着替えたら降りてきてください。急いで、ですからね」
 センスパはそう言うと部屋を出ていった。
 俺は何故センスパがそこまで急いでいるのか、知る由もなく着替えをして、言われた通りダイニングへと降りていく。
 そこにはよそ行きの格好をしたセンスパがいた。
「朝飯は・・・・・」
 俺が呟くと、センスパはきっぱりと
「ありません」
と言い捨てた。
 そして、俺に問いをさせる暇も与えずにセンスパは、
「はい、財布を持ってください。髪をとかして・・・・・、顔を洗ってきてください。そうしたら、出発しますよ」
と言いながら俺を洗面所にぐいぐいと押した。
「出発するって、何処に?」
 当然の質問を俺がすると、センスパは
「あれ、言っていませんでしたか?」
と言ってから、珍しく微笑んで、そして言った。
「遊園地です、すぐそこにN遊園地。今から行くんです」


「なんでこんなに急いだの?」
 朝飯も食べずに悲鳴をあげる腹をさすりながら、やっと電車に乗って落ち着いた俺はセンスパに尋ねた。
「今日の10時まで入場すれば、入場料が半額なんです。テレビでやってました」
と答えるセンスパ。成る程、そういうことか。入場料くらい、気にしなくてもいいのに。
「でも、安くすむならそれで済ますべきです」
 そう言うセンスパの言葉はもっともだと思う。しかし、朝食を抜くこともなかったと思うが・・・・・
「実は私もまだ何も食べてないんです」
 センスパは言う。
「遊園地内のファーストフード店で食べましょう」
「うん、そうだね」
 そんな話をしているうちに、遊園地前の駅まで着いた。
 遊園地へと入場する俺とセンスパ。滑り込みセーフだったが予定通り半額の入場料である。
 ゲート近くにあるファーストフード店に入り、空いている店内で俺とセンスパは軽めのメニューを注文する。センスパは子供向けのおもちゃがオマケとしてついてくるメニューを頼みはしゃいでいる。
 普段は見られないような表情をしているセンスパはいつもよりテンションが高いように見える。普段はとても冷静であるが、もしかすると、元々は姉であるハピマテとそっくりの性格なのかもしれない、と俺は思った。


「じゃあ、始めはどれにしようか」
 遅い朝食を食べながら、俺はセンスパにパンフレットを見せた。俺は何度もこの遊園地には来ているので、アトラクションをほぼ暗記していしまっている。
「ジェットコースターに乗ろうか。乗ったことある?」
 俺が尋ねると、センスパはパンを頬張りながら
「逆にお尋ねしますが、貴方はCDを抱えてジェットコースターに乗ったことがありますか?」
と訊いてきた。
「・・・・・いや、ない」
と答えた俺を見て、センスパは満足したように言う。
「それと同じで、私は初経験です。遊園地に来ることも初めてです。ただ、ジェットコースターというのが朝食の直後に乗るようなものでないことや、遊園地デビューの人が一番に乗るような代物でないことは知っています」
 そんなセンスパの様子を見て、俺はふと思ったことを口にする。
「もしかして、怖いの?」
 するとセンスパは急に慌てたような口振りで
「な・・・・・・、そ、そんなんじゃありません!それくらい平気です!ただ、私は・・・・・、その・・・・・」
と語尾を濁した。
 そんなセンスパを見ていると、自然に顔がにやける。俺はパンフレットを再びセンスパの前に広げると
「じゃあ、何に乗りたい?」
と尋ねる。センスパはじっとそれを見つめていたが、パンフレット内の一箇所を指さすと
「・・・・・これがいいです」
と言った。その指の先にあったのは、子供向けのキャラクター遊具。
 いつもより大分子供なセンスパを見て、俺は微笑む。そうしてから俺は目の前の朝食を平らげ、センスパも食べ終えたことを確認してから言った。
「OK、じゃあ、それに乗ろうか」


「あ・・・・、ひ・・・・・、き、きゃ・・・・・」
 悲鳴にもならない悲鳴をあげているのは、俺の横に座っているセンスパである。
 時刻は昼過ぎ。ジェットコースターの座席に座って、落下するタイミングを今か今かと待っている状況だ。
 あれこれ理由をつけてジェットコースターを避けるセンスパを、無理矢理アトラクションに乗せたは良いが、センスパの恐がり方を見ていると少し可哀想になってきた。
 いつのまにかセンスパは隣の座席で俺の手をしっかりと握っている。その顔面は蒼白だ。
 そして、いざジェットコースターが落ちるという時、センスパは俺の手を握りつぶさんばかりに握った。その汗が噴き出る手が、なんとも可愛らしかった。


「どうだった?」
 ジェットコースターから降りてから、俺はセンスパに尋ねる。
「・・・・・もう嫌です」
「もう一回乗ろうか」
 俺は冗談口調でねてみるが、センスパはぶんぶんと首を横に振った。
「やめてください!」
 そんなセンスパを見て俺は笑う。
「センスパはどれに乗りたい?」
「私はさっき乗ったクマの奴にもう一回乗りたいですけど・・・・・、男性の貴方が何度も乗るのは恥ずかしいでしょう?」
「いいや?」
 俺はセンスパの顔を見る。
「そうかな、別に乗っても良いと思うけど。カップルみたいで」
 俺のその言葉を聞いたセンスパは、とたんに頬を赤らめた。
「・・・・・へ、変な冗談を言うのは、やめてください」
 そう言うセンスパの手を、俺は自然な形で握る。
「じゃあ、もう一回、さっきのに乗ろうか」


 結局、夕方まで遊園地で遊んでいた俺とセンスパは、ほとんどのアトラクションを楽しみ尽くしたため電車に乗って自宅へと帰った。
 駅前でジュースを買って意味もなく立ち話をする。
「センスパは、いつかは物の世界に帰っちゃうんだよね」
「そういうことになりますね。仕方がないことなんです」
「こっちの世界に、残っていたいと思う?」
 俺の問いに、センスパは少しだけ沈黙した。
 そしてその沈黙の後に、少しだけ赤面しながら、しかし笑顔でこう答えた。
「はい、もちろん」


 トイレに行ってkる、と告げ、俺は駅の中のトイレを探した。
「えっと、何処かな・・・・・」
と不必要な独り言を呟きながら小走りで周りを見回していると、突然誰から肩を叩かれる。
「ん?」
 そう言って振り返ると、そこにいたのは、あの人だった。
「やぁ」
「・・・・・・よぅ」
 短い挨拶を交わした後、あの人は真剣な顔で一度、眼鏡に手をやると、話し始めた。
「偶然だけど君たちの話を聞かせて貰ったよ。物の世界、何か知っているみたいだね。・・・・・教えてもらおうか?」
 突然のあの人の登場に俺は驚いたが、センスパとの話を聞かれていたことを伝えられ、俺はさらに驚くことになった。
 あの人に、センスパという女の子が物の世界からやってきたことは秘密にしていた。が、センスパと物の世界について話をしていたところを聞かれてしまった。これは、ごまかしようがない。ない、が――
「きょ、今日は何処に行ったの?」
 あの人にどう説明して良いのかまったく思いつかなかった俺は、まったく別の話題を持ち出した。ごまかしの基本である。
「隣町の水族館に行ったんだ。少し遠かったね」
 あの人は思った以上に気楽に返答してくれた。
 俺は続けて尋ねる。これも時間稼ぎだ。
「で、どうだった?」
「うん、小さいペンギンがたくさんいてね、行進しているんだ。とても愛らしかったよ」
「いや、そういう話じゃなくて・・・・・」
 俺が言うと、あの人は無表情のまま、しかしほんの少しだけ強い口調で、
「それはこっちの台詞だ。そろそろ、聞かせて貰おうか」
と言う。
 俺は溜息をついて、頭の中をクリアにする。そして言葉を選びながら、あの人に話を始めた。
 ハピマテのこと、ハピマテとの別れ、そしてセンスパとの出会い――
 自分の全てを話し終えた俺は一呼吸置いた。否、ハピマテとの恋愛については秘密のままであった。
 要約をして話すのに約10分。その間、終始無言を保っていたあの人は喋るということをふと思い出したかのようなそぶりで、口を開いた。
「成る程、うん、そういうことか。にわかには信じがたいけど・・・・・、僕の方から訊いたんだし、君がそう言っているんだ。信じよう」
 あの人は一度眼鏡を直すと、俺の方を見つめ、尋ねる。
「君、物の世界について詳しいことはしらないの?」
「いや・・・・・、センスパのノートパソコンに何か入ってるみたいだけど、見たことない」
 俺がそう言葉を漏らしたのが、後から思えば原因だったのかもしれない。
 あの人は俺の言葉を聞いて、にやりと笑うと一呼吸置いてから、口をゆっくりと開いて、発音した。
「そうか、それじゃあ――」


 ――帰宅した俺とセンスパは丁寧に手を洗ってから俺の部屋に戻った。
 と、俺の携帯にメールが入る。
『今日はありがとう。おかげで彼と楽しめたよ』
 女史からのメールだった。何とも微笑ましいメールだと思いつつ、俺は返信をする。
「なんですか?誰からですか?」
 センスパが横から携帯の画面を見ようとするが、俺はそれを上手くかわし
「いやいや、これを説明するには相当長い時間を使うと思うから、黙秘権を使っておくよ」
と答える。それが正解だろう。
 センスパは諦めたように自分のノートパソコンを開いた。その様子を見て、俺は先ほど交わしたあの人との会話を思い出す。
 俺がセンスパのノートパソコンのことを教えたその後、あの人が不気味に笑った後に言った言葉――
「――じゃあ、今度そのコンピュータの中身を拝見しようか。・・・・・なに、黙ってればバレないよ」
というその言葉は、妙な冷たさと、何故かそそる興味があって、俺の背筋を冷たくした。



              (33話から40話まで掲載)