――ここは、何処だろう。
 うっすら目を開けた俺は、一番はじめにそう思った。
 目を開けると、一番最初に見えたのは天井。しかも、見慣れた部屋の天井ではない。コンクリートのタイルが貼り付けられている。これは、何処に天井だ?
 少し横に目をやると、そこには見慣れた女の子。
「ん、センスパ・・・・・?」
 俺は、出るようになった声をだして、センスパの名前を呼んだ。
 それに気が付いたセンスパはぼーっとした瞳をすぐに俺の方に向け、そして滅多に見せない笑顔を見せてくれた。
「だ、大丈夫ですか?良かった・・・・・」
 センスパはそう言った。
「ここは、何処?」
 さっきからの疑問を俺はセンスパに投げかける。
「病院よ」
 俺の問いに答えたのは、センスパではなかった。
「母さん・・・・・」
 センスパの隣には、母親がいた。病院?何故、俺は病院に・・・・・?
「不良に追いかけられて、それで物置に隠れたら貴方がいきなり倒れたんです」
 視界が良好になってきた。センスパの目には、うっすら涙がたまっている、ように見える。
「それで、私が通りかかったタクシーに乗って、貴方を一番近かったこの診療所まで連れてきたんです。あの、すみません、財布からお金を少し使いました。クレカが使えなかったので・・・・・」
 センスパはそう言って、頭を下げた。
「それはいいけどさ・・・・・」
 俺は言う。
「俺、何かの病気なの?」
「その質問には私が答えよう」
 今度は白衣を着たお爺さんが出てきた。多分、医者だろう。
「君は暗所恐怖症と閉所恐怖症を持っていると見られる。おそらく、生まれつきのものだろう。病気ではなく、そう、高所恐怖症と類の同じものだと思ってくれば良い」
 精神病、ということだろうか・・・・・?
「君はまっ暗な空間や、周りを密閉された空間、そんな場所で精神状態が狂う。例えば、潜水艦の中のような場所だね」
 そういえば、以前に遊園地に行った時、そんな経験をしたような記憶がある。俺は、観覧車なんかのアトラクションに乗ると、後から考えて自分で信じられないような行動に出ることがあった。
 あれは、その場の雰囲気に流されていたわけではなく、科学的な理由あってのことだったのかもしれない。
「今回、意識を失ったのはたまたま酷い症状の現れ方をしたからだ。今までに、こんな酷い状況に陥ったことは、多分なかったと思う」
「と、いうか、自分がそんな症状の持ち主だということも知りませんでした」
 俺の言葉に、医者は大きく頷く。
「しかし、一度酷い賞状が出ると、今後、少しのことで再発の可能性があるんだ。だから極端に暗い場所や、密閉された場所は極力避けること」
 そして、微笑むと医者は
「ま、死にゃあしないから大丈夫だろう。診察終わり」
と言った。


 礼を言って、俺は診療所を出た。
 母親は、仕事の途中だから、だとかでその場で別れた。
「あの、すみませんでした、私のせいで・・・・・」
 センスパが言ったので、俺は
「気にしなくていいんだよ、俺も分からないでいたことだし。もう大丈夫だから」
とほほえみかけた。
 そうは言ったものの、どうも、足がふらつく・・・・・
「あっ」
 ふらついたせいで、俺は自分で自分のほどけた靴ひもにつまづいてしまった。
「え、あ・・・・・」
 転んだせいで、俺は前に歩いていたセンスパの方に手を伸ばしてしまって・・・・・
「ちょ、ど、何処に触ってるんですか!」
「ご、ごめん、わざとじゃないんだ、ちょっとつまづいちゃって・・・・・」
 何故か、立場が逆になってしまった。
「セクハラですか?そういうことやる人だったなんて、思ってませんでした」
「だから誤解だって・・・・・」
 冷や汗を流す俺と、口調は怒っているが感じは悪くないセンスパの二つの影が、道に浮かぶ。
「そういえば、俺の自転車は?」
「あ・・・・・」


 おきっぱなしだった自転車を取りに行っくという重労働をしてしまったため、疲れてしまった俺は家に帰ってからすぐにベッドに倒れ込んだ。
 さっきまで気を失って眠っていたのに、何故か眠い。
 ふと気が付いて、俺はポケットの中身を探る。
 財布、定期券入れ、携帯電話。
 携帯電話を見てみると、新着メッセージ1件の文字。
「メールがきてるな・・・・・」
 俺は、そう呟いてメールを確認する。
 センスパが横に寄ってくる。いつもの光景だ。人のメールを横から見るのはあまり関心ではないが、俺は特に嫌な気はしないため黙認している。
 メールは、あの人からだった。
『明日の放課後だけど、暇?』
 それだけの短い内容。俺は、
『返信遅れてごめん。用事は特にないけど』
とメールを返した。
 すると次は、訳の分からないメールが送られてきた。
『それなら、星空観察に興味はある?』
 ・・・・・まったく訳が分からない。
 明日の放課後が暇なことと、星空観察に興味があることに何の関連性も見いだせない。センスパも首をひねっているようだ。
 続けて、俺の携帯はあの人からのメールを受信する。
『と、いうのも、明日天文台で天体観測会があって、とある事情で行かなければならなくなったんだ。一緒に行く気はある?』
 一緒に行く気はなかったが、用事もないため、俺は少し考えてからOKの返事をした。
『それなら、明日の放課後、学校から直接天文台に。よろしく』
 それで、あの人からのメールは途絶えた。
「うん、そういうことになったから、明日は帰りが大分遅くなるよ」
「わかりました」
 センスパに言った後、俺は母親に同じ内容を告げる。母親は二つ返事で承諾。俺は、その後にすぐ眠りについた。天体観測会なんて、聞いただけで眠くなりそうだ。


 翌日。
 学校での体育の授業を昨日の
「影響はないはずだけど、一応、明日は運動控えるように」
という医者の言いつけを忠実に守って見学した俺に、あの人は
「どうかした?」
と話しかけてきた。
 俺は、自分の持病のこと、昨日の出来事を、あの人にありのまま伝えた。
「そうなんだ、大変だったね。・・・・・天文台なんかに行っても大丈夫なのかな?」
 あの人の次なる問いに、俺は少し迷ってから、
「考えてなかったけど・・・・・、多分、大丈夫だと思う」
と答える。
 あの人は満足したような顔で、その場を去っていった。


「さてと、行こうか」
 放課後になり、俺とあの人は自転車を滑らせる。
 いつも帰る方向と違うだめ少しとまどう事もあったが、運転に影響が出るほどではない。それに、俺はそれほど方向音痴なわけでもない。
 あの人と二人で何処かに行くなんて珍しい。きっと、クラスの女子が聞いたら羨ましがるに違いない。そして、メールアドレス教えてよ、なんて言ってくるのだろう。・・・・・・それも悪い気はしないな、あの人と一緒に出かけた事実を言いふらしてみるか。
 そんな下らないことを考えている俺は、あの人に尋ねる。
「で、天文台に行かなければいけない事情って何?」
「いや、ちょっと知り合いがね・・・・・星とか、そういうロマンが好きな奴がいて、どうしてもっていうから・・・・・」
 成る程、俺とあの人の二人きりではなかったわけか。周りに言いふらす際はそこは若干の修正を要するな・・・・・
「ほら、着いたよ」
 小学校のころに来たっきりの懐かしい建物が、そこにはあった。
「ここで待ち合わせなんだけど・・・・・」
 あの人が腕時計を見たのと同時に、一人の人影が現れた。
 俺は、その人物を見て、目を疑った。
「こんにちは・・・・・じゃなくて、こんばんは〜。初めましてでもありますね」
 そこに現れた人物は、先日、俺が目撃した、あの人の恋人である女の子だった。


「えっと・・・・・、君は・・・・・」
「さぁ、いきましょう〜」
 俺は女の子に話しかけるが、軽く無視されてしまった。
 にこにこと終始笑っているこの女の子を見ると、何となくハピマテを思い出す。
「ほら、いつまで固まってるんだい?」
 あの人にそう言われ、俺は我にかえると
「ごめんごめん」
と言って、あの人と女の子に走って着いていく。
 そして、あの人にだけ聞こえるくらいの超えの大きさで
「じゃあ、ロマンが好きなのって、この子だったんだ」
と囁いた。
「うん、そう」
 あの人はそれだけ言って、あとは無言のままだ。俺と目線を合わせようともしない。
 と、いうか、あの人とこの女の子は俺の読みでは、であるが、付き合っているはずだ。それなのに、俺がこの場にいてもいいのだろうか。これは、あの人と女の子の、ロマンチックなデートなんじゃないのか?
 ・・・・・とも思ったが、見たところ、そんなことを気にするような女の子ではなさそうだ。そう思うことで、俺は安心することにした。
 歩いているうちに、観察会会場の天文台のすぐそばにある丘にたどり着いた。
「しまった、下にしくレジャーシート忘れちゃった、うっかりしてた!」
 女の子がその身体のわりに大きなリュックをごそごそしながら言う。あの中に、いったい何が入っているのだろうか。何故だか気になる。
「大丈夫」
 あの人は、そう言って自分の鞄の蓋を開けた。
「そうだと思って、僕が持ってきたよ」
 すると、女の子は
「さーすがー」
と言うと、目にも止まらぬ速さであの人に、抱きついた。
「え・・・・・」
 つい変な声を出してしまった。
 固まってしまっている俺とは正反対に、あの人は慣れたものだ。
「こらこら、人前でそういうことはしないこと」
と言って、女の子を引き剥がすと、その頭に手をぽん、と乗せた。
 そんなラヴラヴ具合を見せられている俺は、非常に目線に困るのだが・・・・・
「ほら、困ってるじゃないか」
 あの人が助け船を出してくれた。女の子が俺の方を見る。俺は、とりあえず笑う(多分、引きつった笑みになっていただろう)。
 女の子の方も、それにつられたように、えへへ、と笑うと
「ごめんなさぁい」
と言った。そんな、謝られるとますます困る。
「さて、と」
 あの人は、レジャーシートを敷くと、周りの人がそうしているように、その上に寝転がった。俺と女の子も、それに習う。
 天文台の職員と思われる人が、毛布を配りに来た。流石に、夜ともなると若干寒い。
 俺は、その毛布を受け取ると、あの人と女の子に渡す。
 毛布は大きなものを一枚しか配布されなかった。そのため、俺、あの人、そして女の子は、一つの毛布を三人で被っていることになる。これは、いかがなものなのだろうか・・・・・
 そんなことを考えながら、俺は空を見上げた。
「綺麗ですね」
 女の子が話しかけてくる。
「うん、そうだね」
 俺はそう答えながらも、実際、注目しているのは星ではなく、女の子とあの人の関係だった。


 その後、星を見ながら少し話をした。
 驚いたのは、女の子があの人を名前+君付けで読んだことである。
 クラスメイトの女子が、いや、男子であろうとも、あの人を直接、プライベートな事で本名を使うことを、俺は見た事がない。
 これはやはり、かなりアレな関係なのだろうか・・・・・
 あの人は頭が良いし、イケメンだし、他人から一目置かれる存在だ。それが良いとか悪いとかは、俺が言うことじゃないと思う。
 ともかく、そう言った意味もこめて、俺の周りの人は、彼のことを『あの人』と呼んでいるわけである。しかし、この女の子は寝転がりながらあの人にぺたぺたくっついて話をしている。
「ねぇ、お手洗いに行きたいから着いてきてよ」
 女の子が、あの人に言った。
 あの人は視線を夜空から逸らさずに、
「嫌だよ、一人でいけばいいのに」
と返事をする。
「怖いから一緒に来てっていってるのに〜」
 女の子は食い下がる。怖いのも無理ない。星をよく観察するために、周りの街灯は全て消えている。一番近くにあるトイレまでは、真っ暗闇の中を歩いていかなければならない。
「とにかく、僕は嫌だ」
 きっぱりと断ったあの人の方を見つめながら、女の子は頬を膨らませると
「意地悪〜」
と言う。
「なんなら、俺が着いていってあげようか」
 話しかけづらい雰囲気ではあったが、俺は女の子にそう言う。
「うん、それがいい、そうすればいい」
 あの人も女の子をそう促す。
 女の子の方も、にっこりと微笑むと
「ありがとうございます〜」
と言って立ち上がった。


 トイレの近くの街灯も、全て消されている状況だった。
 月明かりのみが辺りを照らす。ほとんど、暗闇に近い。鈴虫の鳴く声が響いている。
 あまりじっとして待っているのも、エチケットとしてどうかと思った俺は、その場を短く往復しながら女の子がトイレから出てくるのを待っていた。
 と、そこで俺は昨日の医者の言葉を思い出す。
「一度酷い賞状が出ると、今後、少しのことで再発の可能性があるんだ」――
俺は一度、首を軽く振った。
――意識しちゃ駄目だ。今まではこのくらいの暗さなら、なんともなかった。それに、ここは密閉されている空間じゃない。大丈夫・・・・・
 自分にそう言い聞かせるものの、俺の鼓動は急速に早くなっていく。
 深呼吸をするが、その動きは収まることをしらない。ただ立っているだけで、自分の鼓動が聞こえるほどになってきた。
「お待たせしました〜」
 女の子が戻ってきた。その瞬間、俺の心臓はひときわ大きく脈打った。
 理性が、失われていくのが分かった。
 それが分かっても、俺自身にはどうすることもできない。俺は意識せずに女の子のことをじっと見つめていた。
 ――駄目だ・・・・・
 自分に言い聞かせるが、感情が収まらない。精神的不安定状態。自覚できるが、止められない。周りの木が、ぐにゃりと曲がる。
 俺は、女の子の方に手を伸ばした――
「大丈夫?」
と背後から声がして、俺ははっと我に返り、手を引っ込めた。
 振り返るとあの人が腰に手を当てて立っている。
「帰りが遅いし、さっき聞いた君の体質の話を思い出してね。」
 あの人は言う。
「昨日の今日だから、少しの暗闇で再発するといけないと思って。」
「あ、ありがとう・・・・・、大丈夫・・・・・」
 俺は呼吸を整える。あの人のおかげで、自らに、そして女の子に毒を植え付けずにすんだ・・・・・
「大丈夫って?なにが?」
と疑問符を頭の上に浮かべている女の子に曖昧な笑みを浮かべると、俺とあの人は観測会会場へと戻った。


 帰り道。時間は大分遅くなってしまった。
 前を二人で歩いているあの人を女の子を見ながら、俺は決心をした。
「あのさ・・・・・」
 俺の声に、あの人と女の子が同時に振り返る。
「君達二人は、どういう関係なの?」
 自分としては、大分思い切った問いだったと思う。と、言っても、俺は心の中で99%、恋人同士だと確信していたのだが。
 しかし、あの人と女の子は、同時に目をまん丸に見開いた。
「え?聞いてないの?」
と女の子。あの人も、女の子の方を一度見ると、
「お前がもう言ってるんだと思ってた」
と女の子に話し、再び俺の方を見る。
 じっと答えが返ってくるのを待つ俺。そんな俺を見ながら、あの人は眼鏡の位置を直すと、こう言った。
「こいつは僕の妹だよ?本当にきいてない?」



 あの人達と別れて、車通りもまばらないつもの帰り道を自転車で走る俺は、何故だか無性に恥ずかしかった。
 恋人同士だと思っていた男女が、実は兄妹だった、なんて、赤面ではすまない。なんて妄想を繰り広げていたんだ、と自分で思う。
 それに、あの人に限ってあんな年下でいつも笑っているような彼女を作るはずない、と冷静になって思う。これも、俺の勝手な考えなのかもしれないが・・・・・
 家に到着して自転車にしっかりと鍵をかけると、俺は静かに玄関のドアを開けた。思っていたより帰りが遅くなってしまった。親はもう寝ているだろう。
「おかえりなさい」
 玄関の向こうから声がして、俺は驚いた。
 眠そうな目をこすりながら、パジャマ姿のセンスパが、そこに立っていた。
「ずいぶん遅かったですね」
 そのしゃべり方は、どことなく不機嫌のようだ。
「先に寝ていても良かったのに」
 俺が言うと、センスパは回れ右をして二階の俺の部屋に向かいながら一言だけ、
「いえ」
と答えた。どうも天候が思わしくない。今のセンスパは低気圧である。
 触らぬ神に祟りなし、という言葉がある。俺はそのまますぐに着替えると、すでに布団を頭から被って寝ているセンスパに
「おやすみ」
と声をかけると、部屋の電気を消した。


 翌日は休日だったため、俺は寝坊しようと心に決めていた。だからこそ、昨日はあの人の誘われて夜遅くまで星を眺めていたのである。
 しかし、そんな俺の考えは叶わなかった。
 朝、俺がベッドでごろごろしていると、既に起きて着替えまで済ませていたセンスパがやってきて、
「朝ですよ、起きてください。いいから早く!」
と俺の身体を揺すり始めた。
「なに?こんな朝っぱらから・・・・・」
 俺が言うと、センスパはツンとした顔をしながら、
「お客さんです。それに、もう9時ですよ」
と返事をする。
 ――お客さん?誰だろう。
「私と同じくらいの年の女の子でした」
 もうちょっと、愛想の良い感じで言ってくれてもいいのに。
 俺はそう思いつつ、急いで着替えて一階へと向かった。
 一階のダイニングに降り、俺はそこにいる人物を目にしてとても驚いた。
「あ、おはようございます〜。寝てたんですか?えへへ」
 そこに立っていたのは、昨日、俺が勘違いを起こしてしまった女の子――あの人の妹さんだった。
 妹さんは続ける。
「突然ですが、一緒に出かけませんか?もちろん、暇なら、ですけど」
 ――出かける?
 俺は、言葉の理解に数秒かかった。出かける?俺と、妹さんが?
「え、うん、暇だから、いいけど――」
 俺がそう言うと、妹さんはとたんに満天の笑顔になって、
「良かった〜、わざわざ来た甲斐がありました〜」
と言った。


 トースト一枚と紅茶をすすって、俺は昨日から何故か不機嫌なセンスパに出かけると告げ、外に出た。
 行き先は、近場の遊園地。俺が女の子と出かける定番の場所である。今回は、妹さんの方からその場所を指定してきたのだが。
 電車を乗り継いですぐのところにある遊園地のゲートで、チケットを購入する。
 今日は1ヶ月に一度のスペシャルデーのようで、遊園地は大変混み合っていた。
 やっと、順番が回ってくる。スタッフのお姉さんが営業スマイルで
「いらっしゃいませ」
と言うと、続けて電卓を取り出しながら料金の説明を始めた。
「チケットはお一人様1700円で、男女でのお越しのためカップル料金で5%引き、そこからさらにスペシャルデーのため、10%を引かせていただきまして――」
「2907円ですね。はい、どうぞ〜」
 お姉さんが電卓のイコールボタンを押すより前に、妹さんは財布から千円札二枚に小銭を数枚、ちょうど2907円を取り出してカウンターに出していた。
 スタッフのお姉さんも少し驚いているようだ。さすがはあの人の妹なだけはある、物凄い計算の速さだ、と俺は感動を覚えた。
 ゲートをくぐり、俺は目の前にあったアイスクリーム屋で二本のアイスクリームを買うと、一本を妹さんに私、自分の分の入場料である1500円とオマケの500円で、千円札を二枚渡した。
「え、でも、入場料を割り勘すれば1500円で大丈夫ですけど――」
と妹さんが言うので、俺は
「割り勘じゃなくていいんだよ」
と言って、札を握らせた。
「でも、どうして急に俺なんかを遊園地に誘ったの?」
 妹さんが何か言いたげだったので、俺は先に話題を作った。
「昨日、あまりお話できなかったなぁ、と思って〜」
「俺、あの人に妹がいたなんて知らなかったよ」
「去年までは私は関東の方の遠い親戚に家に住んでたんです。それで、今年になってこっちに越してきて、兄と同居しているんです」
 妹さんはそう言った後に、えへへ、と笑うと
「名前で呼ぶと誤解されるから『お兄ちゃん』と呼べ、って兄に言われちゃいました」
と付け加えた。
 どうもあの人には、誤解される、ということ以外に他意がありそうだが、あえて口にしないことにする。
 雑談を交わしながらアイスを食べる。そんな、昨日となんら変わりないような状況――昨日の方が舞台はロマンティックだったかもしれない――で、俺は妹さんのことを見ながら、ふと考えた。
 この子、可愛いな、と。


 いろいろとアトラクションを回って疲れたのか、妹さんは昼食にしよう、と提案し、俺もそれに同意する。
「兄が言ってましたよ。あなたが初めて隔たり無く友達になってくれた、って」
 妹さんが話を切りだした。
「・・・・・と、言うと?」
「兄はあんな性格なので、女の子からの人気はあってもそれ以上に進展しないし、男の子からの一目置かれていて本当の親友っていうのが、作れなかったんだそうです」
 こういう話をしている時も、終始笑顔の妹さんは、どことなくハピマテの姿を連想させる。
「でも、この前のハピマテ祭りであなたと知り合って、そうしたらあなたは普通に接してくれて――。兄はそれを人知れず喜んでいましたし、あなたに感謝しているみたいですよ〜」
 ・・・・・そんな風に、思われていたのか。
 俺は、真に驚いた。驚いて、そして、嬉しくなった。
 あの人はいつもクールでポーカーフェイスで、何を考えているのか分からなかった。心の中で、俺のことを馬鹿にしているのかもしれない、などと思ったこともあった。
 でも、今の妹さんの言葉をきいて安心した。
「私もこうしていると、兄があなたを気に入っている理由分かる気がします〜」
「え?・・・・・そう?」
 今の言葉にどういう意味が含まれていたのか、俺の理解を超越している。
 しかし、悪い方向で受け取るような言葉ではない、ということは、何となく分かった。


「観覧車に乗りましょう」
 ほとんどのアトラクションで遊び尽くしてしまい、もう夕方になってきたころに、妹さんは言った。
 観覧車。
 その言葉が、少し引っかかった。
 観覧車に乗ると、俺の精神は少なからず不安定になる。
 今、そのことを意識して乗ったら、俺自身がどうなるか、自分で予想できない。
 だが――
「うん、いいよ」
 俺はそう返事をした。
 ここで断るべきではない。妹さんに俺の体質を説明する、という選択肢もあったが、それはいささか気が引けた。俺を観覧車に誘ったところを見ると、あの人から聞いていないようだ。
 順番は比較的早めに回ってきた。
 二人でゴンドラに乗り込む。ゴンドラはゆっくり、ゆっくりと動く。
「楽しかったですね、今日は」
 妹さんは言う。
「うん、そうだね」
 俺はそう答えながら、なるべく外を見るように心がけた。大丈夫だ。そこまで情緒不安定ではない。
「もう今日は帰りたくないくらい。あ、私の家に泊まっていきませんか?」
 ・・・・・へ?
 妹さんは、その言葉に動揺した俺の顔を見て、えへへ、と笑いながら
「冗談ですよ〜、そんなに焦らないでください。それに、私の家には兄もいるんですからね〜、残念でした〜」
 ・・・・・危ない危ない。鼓動が少し早くなった。
「でもね、私――」
 妹さんはそこまで言ってから、少しだけ言葉を躊躇った。何かに躊躇う妹さんを見るのは、今日で初めてだった。
「私――」
と言葉をくり返してから、妹さんはうつむいていた頭をあげ、俺の方をみてにっこりと微笑むと、言った。
「私、あなたの事が好きです」
 ・・・・・・どうも、今日の俺は驚きっぱなしだ。
「それって――」
「でもね」
と、妹さんは、俺の言葉を遮って続ける。
「兄から聞いたんですけど、アメリカにあなたのことが好きな女の子がいるんだとか。すごーい。遠距離恋愛ですね〜」
 妹さんは表情を変えない。
「それに、兄の分析によると、近くに女の臭いがするんだとか。兄の勘って当たるんですよ〜、こういう時は〜」
 ・・・・・センスパのこと、なのか?
「だから、話足は最初からあなたを諦めてます。なーんて、えへへ、言い訳みたいですね。私なんて、振られるに決まってるのに、告白なんかしても」
 俺は、何も言えない。動揺して、何も言えない。
 ゴンドラは、回る。

 突然、そんな告白をされても困るのは俺の方だ。
 しかも、状況は密閉された観覧車のゴンドラ内。ここで、自分の鼓動を早めるのには、いささか問題がある、ということは、自分でもよく認識している。
 表情一つ変えず、にこにこしながら俺の方を見ている妹さんも、しだいにその頬を紅潮させていった。向こうも、内心では鼓動を高鳴らせているのだと思う。
「え、えーと・・・・・」
 俺は、とにかく何か言葉を口に出してみることにする。まったく無駄な言葉だと自分で自覚する。何も考えずに言ったので、後に続かない。
 ゴンドラは頂点を通り過ぎ、しだいに降下していった。何度もこの観覧車には乗ったことがあるが、地上につくまではあと2分ほどだろう。それまでに、俺は何かしらの返事をしなければならないのだろうか。それとも、この無言の状況を続けておくべきなのだろうか。
「お願いがあるんですが・・・・・」
 突然、妹さんが話しかけてきたため、俺の身体はびくっと震えた。相手に知られないように、静かに深呼吸。よし、大丈夫だ。
「えっと、なに?」
 自分の声を自分で聞くかぎりには、異常は見られない。自分の精神にも、異常はない――と思う。
「あのね、えへへ、言うの恥ずかしいんですけど――」
 そこで妹さんは一端うつむいた。うつむいたかと思うと、今度はすぐにきゅっと唇を結びながら顔をあげ、笑った。
「私のほっぺにチューしてください」
「・・・・・・・」
 俺の身体が、固まった。
 ――なんだって?
 数秒の沈黙が続く。その数秒が、長い。
 心臓が破裂しそうだ。どうにかならないものか。この自分を、コントロールできそうにない。
 しばらくずっと俺を見つめていた妹さんは、ふっと表情を和らげた。
「えへへ、やっぱり、駄目ですよね――」
 その言葉を最後まで聞く前に、俺はゴンドラ内で立ち上がり、そして目の前にいる妹さんの隣に座り直すと、その小さな顔を両手で押さえるように軽くつかんで、そして、キスをした。唇に――
 二秒間ほどの、ほんのりとした淡いキス――
 俺が顔をゆっくりと話すと、そこには目を丸くさせて俺の方を見て、そして頬を真っ赤に染めている妹さんの顔があった。
「・・・・・ごめん、注文通りじゃないね」
 俺がそう言うと、妹さんは半開きの口を一度きゅっと閉じて、そうしてから
「あり・・・・・がとうございます・・・・・」
と弱々しげに言った。
「はーい、ありがとうございましたー」
 急に第三者の声がして俺は焦った。気付かないうちに、観覧車は一周していたようだ。係員にゴンドラから下ろされる俺達。
 ――やっぱり、俺はどうかしている。
 自分の頭を軽く振って、気持ちを安定させた。もう、大丈夫だ。こんなことはしない。
「――帰ろうか」
 俺が言うと、妹さんはぼーっとした表情を、笑顔に作り替えて
「その前に、もう一つだけ――」
 と言って、俺の手をぎゅっと握ると、そのまま走り出した。


「最後にプリクラを撮りましょう〜」
 軽蔑されてしまったのではないか、なんていう不安もあったが、心配はない――ように見える。
 ゲームコーナーにあるプリクラマシーンまで引っ張られた俺は、ぐいぐいとその中に押し込まれた。
 プリクラなんて撮るのは、大分久しぶりである。
「はーい、じゃあこのフレームでいいですね〜」
 妹さんは慣れた手つきでマシーンを操作する。
『撮影まで、3・・・・・、2・・・・・』
 マシーンがそう告げ、俺は出来る限りの作り笑顔を顔に乗せることにした。
 カウントが『1』になった瞬間、隣にいた妹さんは
「えいっ」
という小さな反動をつけ、俺に両手で抱きついた。
 フラッシュが光る。あっけに取られる俺。作り笑顔も台無しになったかもしれない。
「はい、出来ましたよ〜。えへへ、びっくりしましたか?」
 そう言って笑う妹さんは、朝、遊園地に来た時のまま、そこにあった――


「ただいま・・・・・」
 俺が家に到着したのは、6時前であった。
 玄関に入るとセンスパが出迎えに来る。それを見計らったかのように、俺の携帯が振動した。
 開いてみると、妹さんからのメール。そういえば、メールアドレスを交換したっけ・・・・・
『今日はありがとうございました。楽しかったです〜』
 俺の顔にも、自然と笑みがこぼれる。
 浮かない表情で横からそのメールを見ているセンスパを気に掛けられないほどに、俺は今の幸せに酔いしれることしか考えられなかった。




                  (14話から20話まで掲載)