8月も終わりにさしかかったある日。
 ネットを騒がせた祭り、通称ハピマテ祭りから一年が過ぎた。
 あのころ中学三年生だった俺も、今は高校生。学区内NO.2の志望校に入学しほっとしたのもつかの間、ついていけなくなりそうな速度の授業に、やっと慣れてきたところだった。


 中学校のころ仲が良かった友達は、ほとんどの人と離ればなれになってしまった。
 唯一、同じ高校に通っているのが、意外なことなのだが“あの人”である。
 あの人は、成績優秀で圏外の難関校から推薦を受けていたらしいが、それを断って俺と同じ高校を受験した。結果はトップで合格という物凄いものだった。
 それほどまでに頭が良いあの人が、何故、俺と同じ高校を受験したのか、尋ねてみたことがある。
 その時に返ってきた答えは「君といた方が面白いから」だそうだ。なんでも、両親は遠くに住んでいるため、親からとやかく言われる心配がないのだそうだ。
 幼なじみだったあいつは、スポーツが秀でている高校に進学した。もともと運動神経が良かったため、内申点でかなり稼いだ、と言っていた。あいつとは今でも頻繁に会い、仲良くしている。
 中学の最後の学年をずっと委員長という役職で締めくくったあの娘は、あいつと同じ高校を受験し、合格した。あいつとあの娘の恋愛は現在進行形のようで、俺もなによりだと思っている。
 そして一番驚愕的だったのが、一時期俺と付き合っていた、彼女である。
 話よると、彼女はアメリカの高校へと進学したのだそうだ。
 彼女の渡米の話は、両親の都合ということでかなり前から決まっていたそうだ。卒業式を終え、また卒業生全員が集まる機会があったが、その時はもう、彼女は日本にはいなかった。
 誰にも分かれを告げずに日本を去っていった彼女の姿を思い返すと、最後に良い関係で別れておけば良かった、と悔やまれる。彼女のメールアドレスにメールを送っても、連絡が取れずに送り返されるだけで、卒業以来、彼女とは何の関わりも持てていない・・・・・


 俺の内輪の話は以上にしておいて、話を今に戻そう。
その日も俺は、夏休み中だというのに行われた授業を何とか終え、何ごともなく家路についていた。
 額に浮かぶ汗をYシャツの袖で拭いながら、俺は自転車を走らせる。
 真っ青な空。
 澄み渡っていて、快濶なはずなのに、何処かもの悲しい。
 もう一年の前のことなのに、と俺は考える。
「じゃあ、僕はこっちだから」
と、一緒に自転車を走らせていたあの人が、脇道にそれていった。
 俺は、ひたすら自転車をこぐ。坂道が長い――


 家につき、鍵を使って玄関のドアを開ける。
「ただいま・・・・・」
 誰もいない家に挨拶をする。親は仕事で昼間は家には誰もいない。
 いない、はずなのだ。
 それなのに、何故か人のいる気配を感じる。
 何かがおかしい。
 二階にあがり、自分の部屋に入ろうとドアノブに手を掛けて、俺ははっとする。
 部屋の中から物音が聞こえる。カチャカチャ、という聞き慣れた音。そう、キーボードを叩く音のようだ。
――まさか、泥棒?
 俺はそう思ってから、考え直す。泥棒がコンピュータを弄るはずがない。そんな余裕があったら、金目の物を盗み出せば良い。
 もしかして、と思い、次の瞬間、俺はドアを開けていた。
 期待が、叶った。
 ドアの向こう、誰もいないはずの俺の部屋には、一人の女の子が座っていた。
 一年前、突然俺の家にやってきたあの女の子を思いだし、面影を重ねる。
 が、そこにいたのはあの時の女の子、ハピマテではなかった。
 その女の子は、叩いていたノートパソコンのキーボードから手を離し、俺の方を向いた。
 女の子がかけている眼鏡の奥にある、凛とした目が、俺を見つめた。
 そして、俺が何も言い出さないのを確認するかのように間をおくと、その女の子はゆっくりと口を開いて、そして言った。
「姉さんからきいています。貴方が私の兄になるはずだった人ですね?」


 眼鏡を掛けた、俺より少しだけ年下に見えるその女の子は、ノートパソコンをシャットダウンさせて俺の方に歩いてきた。
 鞄を置くことすら忘れている俺は、ただその女の子のことをじっと見つめていた。
「初めまして」
 女の子は何の躊躇もなしに言った。
「君は・・・・・誰?」
 そうは言ったものの、なんとなく俺には分かっていたのだ。この子が、ハピマテと同じような存在だということが。
 と、いうのも、一年以上前に、俺の家にハピマテと名乗る女の子がやってきたことがあった。
 その女の子は、自分は音楽だ、と自称して、さらには自分をオリコン1位にしてほしい、と頼んできた。俺はその女の子――ハピマテと、沢山の思い出を作った。そしてハピマテは別れ際に、自分は物の世界からやってきた、と説明した。その印象的なシーンは、俺の記憶にそのまま焼き付いている。
「私は1000%SPARKINGといいます。センスパ、と呼んでください」
 俺の目の前にいる女の子はそう言って、頭を下げる。
「貴方の予想通り、私はアニメ音楽です。よろしく――」
 その後も、女の子――センスパは、俺に簡単に自己紹介をした。
 ハピマテがそうだったように、センスパ、1000%SPARKINGは魔法先生ネギま、というアニメの主題歌なのだそうだ。おおかたの予想通り、というべきか、それとも意外な事実というべきか迷う。
 目の前に突然、見知らぬ女の子が現れ、「私はアニメ音楽です」なんて言っても、大抵の人は住居不法侵入と見なして警察に通報するだろう。
 しかし、今の俺は違った。
 ハピマテ、という女の子と同居したことがある経験を除いても、このセンスパは不思議なイメージを俺に与えた。
 まるで、「私は本当に音楽だ」ということを示すかのようなオーラを感じたのである。オーラ、というのも、適切な言葉ではないかもしれないが。
 正直なところ、俺はまだハピマテのことが忘れられずにいた。ハピイマテのことを俺は、一人の異性として見ていたし、人生の中で一番本気の恋をした。そして、その想いは今も続いていると言って良いだろう。
 あの時と同じシチュエーションで、ここに、センスパという女の子がいる。これは一体どういうことなのだろう――
「私は、ネギま第二期の主題歌を担当します。それなので、第一期主題歌であったハッピーマテリアルとは、姉妹関係ということです。つまり、ハピマテは私の姉さんにあたるのです」
 丁寧な言葉遣い。出会った直後からタメ口だったハピマテとは対照的である。本当に、ハピマテの妹なのだろうか、と思ってしまう。
 俺が考えを巡らせる余裕も与えず、センスパは話を続ける。
「そして貴方は約1年前、姉さんと同居して愛し合っていたと聞きました。それなので、あのままハピマテオリコン1位になっていたら、貴方は私の義兄になっていたはずなのです」
 オリコン1位になっていたら――
 その言葉をきいて、俺はまた考えてしまう。
 それが、俺が1年間、ずっと気になっていたことだったからだ。
 オリコン1位になることができなかったために、ハピマテはこの世界から消えて、元いた世界へと帰ってしまった。では、もしも1位になっていたら、どうなっていたのだろうか?どっち道、消える運命だったのだろうか。それとも――
「でも、勘違いしないでください。私は、貴方を『お兄ちゃん』なんて呼ぶ趣味はありませんから」
 考えている途中に、何故か戒めを受けてしまった俺は、
「いや、それはいいんだけどさ」
と言い訳口調で返答をし、思い切って疑問を投げかけてみることにする。
「あのままハピマテが1位になっていたら、って言ったけど、1位になってたらどうだったの?」
「え、えと・・・・・」
 センスパはたちまち動揺してしまった。頬を紅潮されて困っている様子は、今までのクールな様子と対比させてみるとなかなか魅力的だ。
「それは失言でした。すみません、その・・・・・言えないんです」
「そうなんだ」
とだけ、俺は返答した。物と人の世界間を越えてきたのだ。それくらいの障害はあるのだろう。
 俺は話題を変えるために、もう一つの考えていたことを問う。今度はきちんとした、それも俺の考えている通りの返答が返ってくるだろうと予想した。
「それで、その・・・・・センスパがこっちの世界に来たってことは、やっぱり・・・・・」
「はい、貴方が思っている通り――」
 俺の言葉を半分に、センスパは話し出すと途中で言葉を句切って眼鏡の位置を直してから続けた。
「貴方には、いえ、貴方達には私をオリコン1位にしてもらいたいのです」
 予想通りの答えだった。


 俺は、「私をオリコンで1位にしてほしい」という言葉に、ハピマテを思い出す。
 センスパの面影が、ふと、俺のよく知っているハピマテと重なった。
 硬い表情でじっと俺を見つめるセンスパに、俺は笑顔を作って返事をした。
「OK、きっとそういうことだと思っていたよ。俺はまた、全力でセンスパを1位にする手伝いをしよう」
 俺の返答を聞いて、センスパの表情がすっととやわらいだ。そして向こうも笑顔を作ると、
「ありがとうございます。貴方ならそう言ってくれると信じていました」
と応えた。
 もし、もしも俺がセンスパの願いを断ったら、センスパはどうしていたのだろう。
 その疑問は、尋ねないことにした。


「私は、メディアの発表に合わせて貴方のところに現れました。それなので、今日中に何かしらの方法で私の存在が世間へ公表されるはずです」
 センスパとの出会いから一息き、俺は着替えをして(センスパは俺が着替えるところを見るのを恥ずかしがった)、お茶を飲んでいる時にセンスパは言った。
「コンピュータを付けてみてください」
というセンスパの言葉のまま、俺はデスクトップ型コンピュータの電源を入れる。センスパ自身の持ち物であるノートパソコンとは大きさも性能も違う。センスパのものの方がハイスペックに見えた。
 立ち上がってから俺はIEを起動し、ブラウジングを始める。ブックマークしているブログやWebサイトを巡るうちに、すぐに目的の情報は見つかった。
 アニメイトのホームページ、商品情報のページにネギま二期主題歌CDの情報があった。
 ただ、まだ『1000%SPARKING』というタイトルは公表されていない。公表されているのは発売日と価格のみ。
 11月8日発売。1200円。
 735円だったハピマテに比べ、少し高めの値段設定だが、収録曲情報を見るとオープニング、エンディング共に収録されているようなので納得の価格だ。
「曲名まではまだ公表されてないみたいだね」
と俺が言って振り返ると、センスパも自分のノートパソコンで同じサイトを見ていた。
「そうですね・・・・・。あの、ネットで私の名前を言いふらさないで貰えますか?秩序が乱れてしまうので」
 その頼みに俺は承諾する。センスパは安心したような表情を見せた。ポーカーフェイスなのではなく、感情表現が苦手のように見える。
「センスパも俺のコンピュータを使っていいのに」
と俺が言うと、センスパは
「私は自分のがいいんです」
と言って、顔を向けることもしない。よく分からない子だ。
 さて、オリコン1位にするもなにもまだ相手が分からない状況である。ハピマテスレに新主題歌情報のURLを載せるだけで、何もすることができない。
 とりあえず、俺はセンスパと親睦を深めることにした。それからでも活動は遅くない。なにしろ発売は11月。まだ3ヶ月もある。
ハピマテは自分を好きになってくれた人への恩返しのためにこっちの世界に来た、って言ってたけど、センスパもそうなの?」
 俺が尋ねると、センスパは
「それは・・・・・今の私からは言えないんです。実際に1位になってみないと貴方には分からない、としか言えません。ごめんなさい」
とだけ答える。
 俺はまた別の質問を重ねる。
「えっと、なんか敬語だと調子狂っちゃうんだけど・・・・・タメ口でいいよ?」
「いえ、一応、私という存在はこちらでは貴方より年下ですし、それに普通、あちら側――物の世界のことですが――から来た物は、パートナーの人には敬語に接するものなんです」
 センスパの返答に俺に一つの疑問が浮かぶ。
「・・・・・パートナーっていうのは何?」
「あ・・・・・え・・・・っと・・・・・すみません、失言でした。詳しくは言えませんが、今の私にとって貴方がパートナーに当たります。姉さんのパートナーも貴方でした」
ハピマテは最初からタメ口だったけど・・・・・」
「それは姉さんが異常だったんです!」
 何故か強い口調で言われ、俺は押し黙ってしまう。
 そんな俺の様子を見て、センスパは溜息をついた。
「思った通り、貴方は姉さんのことをまだ想い続けているようですね・・・・・」
 その口調から、センスパがハピマテに嫉妬しているように見えたので、俺は
「そうだけど・・・・・」
と言った後にセンスパを慰める。
「そうだけど、センスパのことも嫌いじゃないよ?」
 するとセンスパは
「な、なにを・・・・・・」
と言うと少し照れたようなそぶりを見せた。が、すぐにツンとした顔に戻る。
「勘違いをしないで欲しいんですけど、私は貴方をどうとか思っていませんし、パートナーというのもそういう意味ではないんです!」
 そのままセンスパはそっぽを向いてしまった。
 別にそんな深い意味はなかったのに、と俺は思う。センスパがそこまで無気になる理由が、俺には分からなかった。


しばらくそっぽを向いて自分のノートパソコンを弄っていたセンスパだったが、ふと手を止めると俺の方に向き直った。
「姉さんは、私達の世界へ戻ってきても貴方のことは忘れていませんし、貴方への気持ちも冷めていません」
 突然の言葉だったので、俺は少々驚いた。
 そして、その内容を自分の心の中で反復して、さらに驚く。
 センスパは続ける。
「これって少し異常なことなんです。ブツゴの世界のことをまだ想い続けているようなことは、普通考えられません」
「ブツゴの世界って・・・・・?」
 センスパの言葉で疑問に思った点を、俺は素直に質問する。
「あ、ブツゴの世界っていうのは、物に後と書きます。今、私がいる世界、つまり、貴方が普段暮らしている世界を私達はそう呼んでいるのです」
 ハピマテが、まだ俺のことを想い続けてくれている。
 それは、俺にとって衝撃的な事実であったし、嬉しい事実でもあった。
 俺はまだハピマテのことを忘れていない。しかし、ハピマテは物と人との世界間を往復したわけだし、俺のことなど覚えていないものだと思っていたからだ。
「そっか、そうなんだ・・・・・」
 俺の顔に自然と笑みがこぼれる。
「だから、少しはハッピーマテリアルの音楽を聴いてあげてください。それだけで、ほんの少しですが姉さんの力の源になるんです」
 センスパの言葉を聞いて、俺は思う。
 俺は、あんな夢みたいな経験は忘れようと思っていた。だから、ハピマテを聴くことも自分で断ってきた。
 が、センスパの言葉を聞いて、久しぶりにハピマテが聞きたくなった。いや、ただ自分で制限をかけていただけで、ずっと聞きたかった音楽なのだけれど・・・・・
 久しぶりに棚からCDを取り出し、コンピュータのCDドライブに入れる。思い出の、5月度バージョン。
 忘れようとしていた思い出が浮かび上がってくる。完全に忘れなくて良かった・・・・・。何故か、目に涙が浮かぶ。
 センスパのじっと見つめられていることに気付き、俺は慌てて話題を変える。なんとなく泣いているところを見られるのは恥ずかしい。
「そうだ、1000%SPARKINGっていうのは、どういう曲なの?」
 センスパも俺から慌てて目線を逸らし、答えた。
「それは、教えられないんです。えっと、情報の矛盾を防ぐためにこちらの世界で曲の内容が分かるまでお知られません。姉さんと違って私はゼロからのスタートになるので、少し不便なんです」
「そうなんだ・・・・・」
 センスパの答えを聞いて、音楽を聴くのは後のお楽しみでも良いだろうと考える。。
 でも、と俺は思う。
 あのハッピーマテリアルの妹なのだ。悪い曲のはずがない。
 現に、センスパはこんなに良い子だ。これが、悪い曲のはずがない。
 センスパの出来を想像するだけで、今の俺は満足だった。


 夜に親が帰ってきて、センスパについて偽りの説明をして同居することを認めて貰った。
 こういうとき、単純で疑いをしらない母は良い人だ、と身に染みる。なんとも不謹慎な話なのだが、センスパに関して本当のことを言うわけにはいかない。
 それに、礼儀正しいセンスパは、すぐに母に気に入られた。ハピマテも活発で良い子だ、という理由で気に入られていたな、と俺は思い返す(結局母はどうでも気に入るのだろうか)。
 いざ寝る時となって、寝る場所で少しセンスパと揉めてしまった。
 センスパが俺と同じ部屋で寝ることをかたくなに拒んだのである。
 俺だって同年代の女の子と寝ることには抵抗がないわけではない。しかし、ハピマテは何も言わず同じ部屋で寝泊まりしていたし、俺も特別それを意識したことはなかった。
 そのことを伝えても、センスパは
「同じ部屋はちょっと・・・・・恥ずかしいです・・・・・」
と俺の提案を断る。
 しかし、部屋が足りないという問題はどうしようもない。女の子をリビングのソファで寝せるわけにはいかないし、俺だって何日間もそれは嫌だ。
 結局、センスパも承諾して同じ部屋で寝ることになった。ベッドはセンスパに明け渡し、俺は来客用の布団を引っ張り出して寝そべる。ぺったんこになっていて気持ちが悪い。後で干そう。
「おやすみなさい」
と眼鏡を外すセンスパのことを見て、俺は思う。
 ――眼鏡を掛けていない素顔の方が可愛いじゃないか
 だが、それを言葉で伝達するより前に、センスパは寝息を立て始めた。初めての人の世界(“物後の世界”というそうだが)は、センスパにとって大変な場所だったのかもしれない。
 寝顔を眺めてから何となく罪悪感にかられた俺は自分の布団を頭から被り、
「おやすみ」
とだけ言って眠りについた。


 翌朝。休業中に行きたくもない学校に行かなければならないため、俺は目覚まし時計にたたき起こされた。
「おはようございます」
 俺が目を覚ますと、すでにセンスパが昨日着ていた服をきていた。
「早いね」
「はい」
 昨日の出来事が夢でなかったことを確認して安心した俺は急いで身支度を済ませ、自転車にまたがった。
「いってらっしゃい」
「いってきまーす」
 挨拶を交わし、俺はペダルをこぐ脚に力を入れる。
 自転車はいつものように、爽快に動き出した。


「おはよう」
 声がして振り返ると、そこには眼鏡を掛け、いつも通りの普遍的な様子で自転車にまたがるあの人がいた。
 挨拶をして、俺は自転車の速度を緩める。
「ブログ巡回してたら見つけたんだけど、ネギま第二期の主題歌発売日が決まったね」
 あの人が話しかけてくる。さすがに、情報が早い。
 俺が頷くと、それを確認したようにあの人は続ける。
「懐かしいな、あれから一年か。文化祭でライブをやったりして、楽しかったね、あの時は」
 確かに、そうだ。あの人がいたからこそ、俺の周りで成功した祭りだったと思うし、あの人がいてからこそのバンド、『MATERIALS』だったのだから。
 俺は、「もちろん、今度も1位にする祭り、やるよね?」と尋ねようとした。尋ねようとしたが、俺がその質問を口に出すことは出来なかった。
 その問いを投げかけるより前に、あの人がこう言ったからだ。
「でも、今回は買わないかな、僕は。盛り上がらないように思えるから」
 ・・・・・・え?
 俺は自分の耳を疑った。そして、一気に身体全体が脱力した気がした。
 あの人がいてこそのオリコン1位祭り。そう思っていた。しかし、あの人の参加辞退。これは、少なからず、俺の精神にショックを与えた。
「そっか・・・・・」
と言ったはいいが、俺の気は晴れていなかった。


 その日の授業は集中できなかった。
 センスパを1位にするために必要不可欠な存在であったあの人を欠いたことになる。これは、少なからず困った。
 「君といると楽しいから」と言って、俺と同じ高校に入ってくれたあの人は何処にいってしまったのだろう。思いが変わってしまったのだろうか。もう、昔のことなど切り捨ててしまったのだろうか・・・・・
 こうなってしまうと、俺自身、また同じCDを何枚も、何十枚も買うことが正しいことなのか、方向を見失ってしまった。
 正しいなんて、ないのかもしれない。しかし、人間は、常に正しさを求めてしまうのものだ。俺もその中で、例外ではない。
 センスパと約束した以上、センスパ1位運動をせずにいるわけにはいかない。あの嬉しそうなセンスパの笑顔を、忘れたわけではない。
 しかし、あの人も盛り上がらないと言っているように、俺もハルヒ祭りを合わせて3度目のこの祭りが、ネット上で盛り上がるのか。それが不安だった。
 帰り道、俺は一人で自転車をこいでいた。
 頭の中では、センスパのことだけを考えている。昨日俺の前に現れたセンスパ。あれは、幻だったのかもしれない。そう思えば、俺はいま、11月8日のことをこれほどまでに考える必要はないのだ。
 踏切で足止めされたところで、俺はポケットから携帯電話を取りだした。
 中学のころ親友だった、あいつにメールを送ってみることにする。
 あいつも、中学でハピマテ祭りを一緒に首謀した仲間である。あいつには、まだセンスパのことは言っていない。
 俺はアドレス帳からあいつのアドレスを引っ張り出し、本文を書いた。
ハピマテの続編みたいなCDが出ることが決まったらしい。でも、また去年みたいにオリコン活動をするべきなのか迷ってる。あの人もやる気ないみたいだし、お前ももう飽きちゃったかな?』
 かなり弱気なメールになってしまったが、遮断機が開いたので送信。返信は家に帰ってから見よう。そう思い、ポケットに携帯電話をしまい、再び自転車をこぎはじめた。


 家に到着し、玄関のドアを開ける。
「おかえりなさい」
 センスパの声がした。幻では、なかったようだ。俺は心から一安心する。
「ただいま」
と言ってから、俺は鞄を下ろして溜息をついた。
「何かあったんですか?」
と無表情のまま尋ねるセンスパに
「なんでもない、大丈夫だよ」
と答えてから、俺はポケットに手を突っ込み、携帯電話を取り出した。
 新着メッセージ1件、の文字。メールボックスを見ると、あいつからの返信であった。俺は急いでそれを開いて確認する。
 液晶に浮かぶ文字に目を滑らせる。目がチカチカするが、気にすることはない。いつものことだ。
 センスパが横から
「見てもいいですか?」
と訊いてきたので、俺は頷いて承諾する。センスパは俺に身体を寄せるのを一瞬躊躇したが、すぐに妥協して顔を寄せてきた。
 あいつからのメールの内容はこうだった。
『何言ってんだ。あの時に1位に出来なかった分を今回やるんだろ!他人がどう言うかなんて何か関係あるのか?意味わかんねーぞお前。少なくとも俺はやるぜ。楽しいからな、なんたって。そう弱気になるなよ、お前らしくない』
 3回、そのメールをくり返し読み、俺は携帯をしまった。
「友達からですか?・・・・・・良い友達ですね」
 センスパが感想を述べる。まったく、その通りだと思う。
 良い親友を持ったもんだ――
 俺は再び、溜息をついた。今度は、感嘆の溜息だった。
 まったくもって、あいつの言う通りである。あの人一人だけが断ったからって、すぐに活動自体を諦めるなんて馬鹿みたいだ。俺にはまだ手持ちのカードが残っているし、その中に切り札だって何枚もある。
 その中の一枚の切り札を失っただけじゃないか。まだ打つ手は星の数ほどある。やってやろうじゃないか。前に、1位に出来なかった分、今回――
 あいつからのメールに励まされた。
 俺は、切実に、あいつに感謝していた。


「目薬をさすので、眼鏡持っていてもらえますか?」
 俺が風呂からあがると、センスパが俺の部屋のベッドに座りながらそう言った。
「OK」
と言って、俺はセンスパから眼鏡を預かる。眼鏡を外したセンスパの顔を見るのは初めてではないのだが、その顔は惚れ惚れしてしまうほどパーツのひとつひとつが整っている。一般的に、こういう女の子のことを美人と呼ぶのだろう、と俺は思う。
「あのさ、センスパ。俺の好みの話だけどさ、眼鏡してない方が可愛いと思うよ?」
 その俺の言葉に、センスパはせき込んだ。その拍子に手に持っていた目薬を床に落としてしまったほどだ。
「な、なにを・・・・・」
 センスパは落とした目薬を手で拾って、俺の方を向いて言った。
「可愛いとか、そういうのは関係ないんです。私はコンピュータのせいで目が悪いんですから・・・・・」
「こっちの世界に来たのは良い機会と思って、コンタクトにしてみたら?明日、暇だから眼科に行くの付き合ってもいいよ」
 俺は一つ提案をする。下心は、正直な話、少しはあった。
「別にいいです。私、保険証持っていませんし・・・・・」
「うーん、でも、俺は眼鏡がない方が良いと思うけどなぁ・・・・・」
と、飽くまで食い下がる俺に、センスパは怒ったような、しかし、少し照れているような表情をして、
「あ、貴方の考えは関係ありません!」
と言う。
 その後、少しだけ俺とセンスパの白熱した(不毛な)議論が続いた――


――五分後。
結局、俺に押し通されてコンタクトを作りに行くことになったセンスパがいた。
「代金は貴方が出してくれるんですよね?私はお金持ってませんよ?それに、私は眼鏡があるわけでこんな、コンタクトなんか必要ですし・・・・・」
「分かった分かった」
 俺は、しっかりと眼鏡屋のパンフレットを握りしめているセンスパをなだめる。頑固に見えるセンスパも、それほどしつこく提案を重ねなくともすんなり(見た目はすんなりではないが)承諾してくれた。
「じゃあ、明日、眼科に行こう。午前中にね」
 俺がそう言った瞬間、携帯が鳴った。曲はハッピーマテリアル
 開いてみると、あいつからのメールだった。昼間の件だろうか。
 内容は、あいつ独特の用件のみを書いたものだった。
『明日、会えるか?』
 そのメールを横から見ていたセンスパは、
「あ、私の方の用事はまた今度でいいですから。友達との用事を優先してください」
と言う。残念なところを強がって見せているようにも見える。
 そんなセンスパに俺は、
「大丈夫だよ」
と言って、微笑んだ。
「友達と会うのは午後からだから。眼科には午前中に行こう」
 センスパが頷いたのを確認し、俺はあいつにメールの返信をする。
『午後なら会えるよ』
 返事はすぐに返ってきた。
『OK、じゃあ2時に駅前で。他の友達も呼ぶぞ〜』
『分かった』と最後の返信を行い、俺はセンスパをちらりと見た。
「楽しみだね」
と話しかけた俺に、センスパは曖昧な笑顔を見せた。思いっきり笑いたいが、自分のプライドが許さない。そう言っているようだった。


 翌日。
 休みの日なのに早起きした俺は、朝からいない母親の変わりにセンスパが作った簡単な朝食を食べて眼科へと向かった。
 視力などを計り、処方箋を受け取るとすぐ隣の眼鏡屋へ行く。
 コンタクトは少し待つだけですぐに受け取ることができた。俺は視力が良いので眼鏡もコンタクトも経験がないが、こんなにも簡単にできるものなのかと驚嘆した。
 眼鏡を外し、店員の指示にしたがってコンタクトを付けるセンスパ。そのびくびくした姿が、何となく愛らしい。
「お似合いですよ」
と店員に言われ、
「えっと・・・・・どうですか?」
と、妙に照れながら、俺の方に振り向く。
「うん、やっぱりこっちが良いね。似合ってるよ」
「そ、そうですか」
 恥じらっているのに、クールを保とうとして失敗し、かえって挙動不審になっているセンスパは何故だか魅力的だった。
「ふふ、お似合いですね、お二人とも」
と気を利かせて言う店員に
「な・・・・・、そ、そういうんじゃありません!」
とやっきになって否定するセンスパに、今までとは違う感情が芽生えたのは、この時が初めてだったのかもしれない、と俺は後々になって思うことになる。
 だが、その時はただ笑いながら、慌てているセンスパの姿を見ることだけをしていたのは、俺の神経回路がそういう方面に異常を抱えているせいかもしれない。



         (第1話から第7話まで掲載)