センスパと遊園地に行ってから数日後のことである。
 学校に行こうとする俺にセンスパが
「今日、私一人で出かけてもいいですか?」
と尋ねてきた。
「どうして?」
 俺が聞き返すとセンスパは一瞬だけ言葉を躊躇してからうつむき加減に呟くように返答をする。
「えと、近くの市民センターで仔犬とふれあうイベントがあって、その、私、今まで言っていませんでしたけど小動物が好きで、その時間、貴方は学校なので――」
「OK、いいよ」
 センスパの言葉の途中で俺は返事をした。このままだとセンスパの言葉が永遠と続くおそれがあったからだ。
 センスパの意外な趣味に少し驚きつつ、俺はそのイベントの時間を尋ねる。
「3時から5時半までです」
 俺の帰宅はだいたい4時半ころ。確かにそれでは間に合わない。
 俺は再びOKサインを見せ、時計を確認してから学校へと向かった。


 そして時間は進み、放課後である。
 下駄箱でいざ帰ろうとしているあの人に俺は近づき、話しかける。
「今日、学校にセンスパがいないよ」
 俺は前置きなしに話しかける。あの人も、言葉を聞き返したりせずに返答する。
「そうか、それなら――、お邪魔していいかな?」
 あの人の不気味な笑顔は、もう見慣れた。


 あの人は家に帰らず、直接の俺の家にやってきた。
 俺は鍵を使って自宅の玄関を開け、あの人を中に招き入れる。当然ながら中には誰もいない。もちろん、あの人を家に招いた理由はそれだ。
 あの人を家に招いたのは、センスパのことに関係がある。
 先日、あの人が言った言葉。それを俺は忘れていなかった。センスパのノートパソコンを拝見しよう、という話である。
 俺もプライバシーの侵害のような行為は、良心が痛む。しかし、あの人の「バレなければ」とという言葉が引っかかっていた。それに、センスパ自身のことについては、俺も興味があった。
 部屋に入ると予想通り、ノートパソコンが放置されていた。
「帰ってくるのは5時半だったね。速急に作業を進めようか」
 現在時刻は4時37分。あの人がノートパソコンの電源を入れる。俺はそれを黙って見る。
 あの人は馴れた手つきでマウスを操作する。マイコンピュータ内のローカルディスクをクリック。ハードディスク内のファイルを開こうとする。
「ん・・・・・」
 あの人が声を漏らした。俺もディスプレイをのぞき込む。
  あなたの“好きなもの”を入力してください。あと3回。
 そこには、そう書いてあるポップアップが浮かんでいた。
「パスワード入力のようだね」
 あの人が呟くように言って二、三回キーボードを操作すると、腕を組んだ。
「設定を見る限り、三回間違えると警報が持ち主の携帯にメールとして送られるみたいだね」
 つまり、三回間違えるとセンスパの元に情報が届く、ということか――
「やめようか?」
「いや、2回やってみる価値はある」
 あの人はそう言って、キーボードに手を伸ばした。
「これって、センスパが好きなものを入力すればいいわけだよね?」
「そうなるね」
 あの人はキーボードを叩く。パスワード入力画面に『ハッピーマテリアル』の文字が浮かぶ。どうやら☆の記号は入力できないようだ。
 エンターキーを押す。とたんにエラー音がスピーカから流れた。
  パスワードが違います。あと2回。
「こんなに簡単じゃないか・・・・・」
「じゃあ、小動物、は?」
 あの人は俺に言われるままキーボードを叩いた。『小動物』。そしてエンター。
  パスワードが違います。あと1回。
 エラー音と共に出てきたメッセージを見て、俺は愕然とする。これでもないとすると、あとは何なんだ?
「『ハピマテ』とか『姉』じゃないかな」
「そんな単純じゃないと思う。他人に、つまり君に知られていることだからね」
 あの人の返答を聞いて俺は、じゃあ、と言う。
「もう、やめよう・・・・・」
 あと1回でパスワードを当てられる自信はない。無駄にリスクを負う必要はない。もう、やめるべきだ。
「いや、もしかして・・・・・」
 あの人は、俺がディスプレイを見ていない時にキーボードを叩いた。
 そして、俺が止める前に、エンターを押してしまった。
 すると、スピーカからは先ほどと違うシステム音が鳴り響いた。画面には
  認証されました。
の文字が浮かんでいる。パスワード、解除――
 にやりと笑うあの人に、俺は
「何て入力したの?センスパの好きなものって、何?」
と尋ねる。あの人は俺の質問に一度微笑んで眼鏡を掛け直すと、ゆっくりと発音した。
「君の、フルネームさ」
 ――俺の思考が一瞬停止し、再び動き出した。
 センスパの“好きなもの”が、俺のフルネーム?それって、どういう・・・・・
「一発変換できたから、確信したね」
 あの人は俺の方を見ずに言った。俺は質問をしようとしたが、それより前にあの人が
「時間がない。早めに用を済ませよう」
と言ったため、俺は口をつぐんだ。
「これ、だね」
 そう言ってあの人はディスプレイ上の『物世界に関する一考察』というファイルをダブルクリックする。ソフトが立ち上がり、文書ファイルが開かれた。
 とても見やすくレイアウトされているそのファイルを、俺とあの人は何故か息を潜めながら上からゆっくりとスクロールする。
 既知の情報がほとんどであったが、中には未知の情報もあった。それらを箇条書きで挙げてみると、こんな感じだ。

  1. 物後の世界に来る際持っていた目的を達成すると、望みを一つ叶えることができる。
  2. その望みは“物”によって異なる。
  3. 一部でしか知られていないマイナーな“物”(センスパやハピマテもこれに当てはまる)は、ランキング関係の目標を持つ事が多い。
  4. 今までその目標を達成し、望みを叶えてもらった例は稀である。


他にもいくつか新たな情報はあったが、特に羅列する必要があるものとは思えなかったので割愛することにする。
しかしそれでもあの人は満足したようである。俺にとって既知のことでも、あの人にとっては知らないことばかりだったのかもしれない。
20分ほどその文書ファイルを眺め、あの人は一息つくと立ち上がった。
「時間より早く帰ってくる心配があるからね。欲しい情報は得られた」
 そう言うとあの人はマウスを操作し履歴を消すと、電源を切る。
「僕は帰るよ。それじゃ」
 そう言い残したあの人は自分の鞄を持って、帰っていった。あっけない終わり方だったような気もするが、センスパにバレないようにするためにはそれが得策だということは俺も分かっていた。
「さて――」
 一人だけになった部屋で、俺は無意味な声を漏らす。センスパのノートパソコンの中にあるファイルは、一つしか見ていない。他にもファイルは色々あった。心の奥底から、興味という二文字が沸いてくる。
 俺は生唾を飲み込むと、再びセンスパのノートパソコンの電源を入れた。ローカルディスクをダブルクリックし、パスワード入力画面で俺のフルネームをタイピング。今度は一発で認証された。
 フォルダの中には犬や猫の画像、それにハピマテの音楽ファイルなどが沢山入っていた。その中で一つのファイルが俺の目を引いた。
 俺は、『Diary』というファイルを開いた。
 すぐに日記用ソフトウェアが立ち上がり、センスパの日記帳が現れる。几帳面なことに、俺と出会ったあの日から毎日、日記が付けられていた。
 若干の罪悪感を覚えながら、しかし興味関心がそれより勝っている俺はマウスホイールを使って画面をスクロールする。
 一番始めの記事は、こうである。
『姉さんが好きになったという人と初めて会った。想像と少し違う感じだ。』
 俺は黙ってその後の記事を目で追う。
『彼に勧められ、コンタクトを作った。目に入れるのが少し怖かったけど、付けてみると違和感はない。似合っていると言われたので嬉しい』
『街に行った。不良と会って危なかったけど、彼が私の手を引いてくれた』
というような内容が途中から目立ってきた。彼、というのが俺のことらしい。
 他にも
『彼が知らない女の子と仲良くしている。誰なのか分からないけど、今日は夜遅くまで一緒にいたようだ。どういう関係なのか気になる』
『彼と遊園地に行く約束をした。いつ行けるかは分からないけど、それまで物後の世界のことをもう少し勉強しておこう』
などという、俺に関しての記事が多くなってきたように思える。
 そして俺は、中にあった一つの記事を見て我が目を見張った。硬直した。思考が、停止した。
『キャンプから帰宅。楽しい三日間だった。』
という書き出しのその日の記事は、こう続いていた。
『三日間、彼と過ごしてみて、私は改めて彼のことが好きなのだと分かった。きっと、そうなのだ。姉さんに申し訳ない。でも、この気持ちに嘘はつけない。それに、気持ちの強さでは、姉さんに負けるつもりはない』
 ――俺のことが、好き・・・・・?
 三回その記事を黙読して、マウスを持つ自分の手が震えていることに気付いた。ひょんなところで、思ってもいなかったものを見てしまった――
 その時だ。
 俺の背後でガタン、という音がした。俺は振り返ることすら忘れて、画面を見つめていた。
 音がしたことに気付いてから数秒後、ハードディスクがカリカリと音を刻んでいただけで、ほとんど沈黙を保っていたその部屋に、冷たい声が響いた。
「・・・・・何をしているんですか?」
 俺の後ろに、センスパが立っていた。


「・・・・・センスパ、か」
 止まっていた思考を必死で回転させ、俺は現在状況を確認する。
 今の俺は、センスパに隠れてノートパソコンを盗み見していた。そして、この場にはセンスパ本人がいる――
 我に返った俺は時計を見る。5時47分。いつのまにか、時間が経過していたようだ。それほどに精神的に集中していたようだ。いや、今はそれどころではない。この状況は、最悪だ。
「私のパソコンの中身、見たんですか?」
 センスパの声が、俺の胸に鋭く、そして冷たく突き刺さる。
「・・・・・」
 俺が黙って何を言わないのを見越したように、センスパはまっすぐ俺の方を見つめながら言葉を継ぐ。
「パスワードも解いたか、無理矢理解除したみたいですね。セキリュティは万全だったのに、どうやったんですか?」
 あの人がパスワードを解いたとは言えない。第一、センスパの存在があの人にバレたということは黙っておきたいし、あの人にも、今俺がこんな状態になっていることは秘密にしておくべきだ。無駄な責任を、あの人になすりつけるつもりはない。
 そうじゃない、そうじゃないんだ。
 俺は頭を軽く振って考えをまとめる。冷静になれ。今の俺は、センスパに対して取り返しのつかないことをしてしまった。馬鹿野郎、それでも男なのか。
「これは、その・・・・・」
 脳内で響いている自分に対しての戒めの言葉とは裏腹に、俺の口からは何とも言えない言葉が漏れる。
「なんですか?言い訳なら聞きますよ?」
 センスパの声色は変わらない。その表情も、変わらない。
「・・・・・何でもない、俺が悪かった」
 俺がそう言うと、センスパは無言のまま俺の方に歩み寄り、ノートパソコンを片手で持ち上げるとそのディスプレイをのぞき込んだ。
「日記・・・・・、見たんですか?」
「・・・・・ごめん」
 俺の返事を聞いて、センスパはキーボードを操作しコンピュータをシャットダウンさせると、俺に対して背を向けてドアのところに立ち、部屋を去り際に震える声で呟いた。
「・・・・・こういうことはしないって、信じてたのに――」
 その顔を見ずとも、泣いていることが分かった。


 翌日になり、俺は珍しく朝、一人で目を覚ました。否、ほとんど寝ていなかったという方が正しいだろうか。
 結局あの後、センスパは一言も口を利いてくれなかった。それどころか、一緒の部屋が嫌だと無言のメッセージを俺に送り、一階のリビングで夜を過ごしたようだ。
「じゃあ、行ってくるよ・・・・・」
 俺が鞄を持ちそう言うが、センスパはこちらに背を向けたまま何も言わない。今までは見送ってくれたのに・・・・・
 俺はそう思いつつ、ドアを開け、無言のまま家を出た。堪えないと、自分も泣いてしまいそうだった。

 放課後になり、まったく集中できない授業が終わりを告げた。
 授業中も俺はセンスパのことを考えていた。どう謝ろうか、ということから考え始めたが、だんだんとセンスパはこのまま許してくれないのではないか、と考えが回った。
 家に帰って、センスパが物の世界に帰ってしまっていたら、どうしよう。
 そんな空虚な妄想が頭の中を巡り、そして焼き付いた。
「君、これから暇?」
 突然声を掛けられて俺は身体を少し揺すってから振り向く。
 あの人が、いつも通りの表情でそこに立っていた。
「用事はないけど・・・・・」
 俺がそう答えると、あの人は
「妹がケーキを焼くから君に食べて欲しいってさ。来る?」
と尋ねる。疑問系ではあったが、ほとんど強制的な発言だった。
 このまま家に帰るのにも気が乗らない。俺は少しだけ考えて、
「OK、いくよ」
と返事をした。


 もうすっかり慣れてしまったあの人の家に到着。俺は自転車を置いて、あの人に招き入れられ家の中に入る。
「こんにちは・・・・・」
 挨拶をして俺が中に入ると、泡立て機を片手にもって頬に生クリームをつけたエプロン姿の妹さんが姿を現した。
「ほら、連れてきたよ」
 あの人が言うと妹さんはすぐにキッチンの方に引っ込んでから
「あーん、帰ってくるの早いよう〜」
と声だけで返事をした。
「しかたないだろう、先生達の都合で早めに授業が終わったんだ」
 あの人がそう言うが、妹さんから返事はない。少ししてから
「もう少しで出来るのでちょっとリビングで待っててください〜」
と声がしたので俺はその声に従うことにする。
 リビングの机の上には動物の形をしたクッキーが置かれていた。
「ケーキ出来るまでクッキー食べててくださいね〜」
という妹さんの声を聞く限り、これも妹さんの手作りのようだ。
 俺はお言葉に甘えることにしてクッキーをつまみ、口に放り込む。美味しい。
「うん、美味しいよ」
 俺が言うと妹さんは今度は顔だけをこちらに見せて
「ありがとうございます〜、ケーキはそれの100倍美味しいですよ、えへへ」
といって、再び顔を引っ込めた。


 数分後、妹さんがケーキを持って現れた。
「はい、出来ましたよ〜」
 そう言って妹さんはケーキを机に置くと、こちらを見てにこりと笑った。
 そのケーキには板チョコのデコレーションが乗っており、その板には白く文字が描かれていた。
 “I love you.”と、筆記体で。
「へぇ、嬉しいメッセージだね」
 俺の隣に座っていたあの人が、俺より先に声をあげた。それを聞いて妹さんは
「違うって〜、お兄ちゃん宛じゃないよ、もう〜」
と頬を膨らませる。
「分かってる、冗談」
 あの人はにこりともせずにそう答えた。
 俺は何と言って良いのか分からなかったが、頬を指で掻きながら
「あ・・・・、えっと、ありがとう」
と言った。一方妹さんは俺の方を見て相変わらずにこにこ笑いながら
「えへへ、喜んで貰えて何よりですよ〜」
と言って、自分の指についていた生クリームをぺろりと舐める。
「じゃあ、切りますね〜」
 妹さんはそう言ってホール型になっていたケーキをピース型に切り、それを小皿に分けた。俺とあの人と妹さんの三人分に分けてもまだ残るくらいの量だった。
「はい、これはお兄ちゃんにはあげないからね」
 妹さんはデコレーションの板チョコを俺の分のケーキに乗せると俺に渡した。
 とても照れるが俺はありがたくそれを頂き、口に運ぶ。
「うん、美味しいよ」
と俺は感想を述べ、横目であの人を見る。あの人は無言無表情でケーキを食べていた。まぁ、いつものことだ。
 笑顔を作ってケーキを食べている俺のことを妹さんはしばらくじっと眺めていたが、俺が箸休め(この場合はフォーク休めだろうか)に皿をテーブルに置いた時、妹さんは思い出したように口を開いた。
「どうしたんですか?元気ないですよ〜」
「え?そんなことないよ」
 俺はそう答えるが、妹さんは俺を見つめたまま続ける。
「ごまかしたって駄目です、私、こういうのは鼻が利くんですよ〜」
 その言葉にあの人が
「もっと他のことを考えればいいのに・・・・・」
と呟いた。妹さんは怒った様子で
「む〜、私、ガッコのテストでずっと一番だもんね」
「学校のテストは99%が無駄なんだよ」
「じゃあ残りの1%はなんなの?」
「自分の名前を書く練習になる」
 あの人の冗談に妹さんはにこりともせず、
「面白くないよ、そのジョーク」
「はいはい、これは失礼しました」
 これであの人がぴたりと静かになった。妹さんは再び俺の方に向き直る。
「もしかして、失恋したんですか?」
「いや、そんなこと・・・・・」
 これは、失恋というのだろうか。センスパは俺に対して好意を抱いてくれていたようだ。しかし、俺は・・・・・?
 俺はセンスパのことが、好き、だったのだろうか。友好的な意味でなく、恋愛的な意味で。
 そんな俺の思考の途中に、妹さんは俺の方を見てにっこり微笑んで、そして続けた。
「いざとなったら私があなたの恋人になってあげるから、大丈夫ですよ。なーんて、えへへ・・・・・」


 あの人の家を訪問してから、さらに二日が過ぎた。
 その間、センスパと交わした言葉は二桁もないし、それら全ては「はい」とか「どうぞ」とか、そういう業務的なものだけだった。つまり、センスパとの決裂はまだ回復していない、ということだ。
 ここまでくると、いってきます、の一言を言うことさえ億劫になってしまう。その気持ちが状況を悪化させているのかもしれないが、今の俺にそんな慰めをするのは無駄であった。
「・・・・・」
 無言のまま家のドアを開け、外に出る。ソファに座って新聞を読んでいたセンスパは、こちらに目も向けず新聞記事に没頭しているようであった。
 ひたすら自転車をこいで学校に向かう。通学途中であの人と会った。
「やぁ、おはよう」
「ああ、おはよう・・・・・」
 あの人の挨拶に、俺は気のない返事を返す。
「本当に元気ないね。妹の鼻を持参しなくても分かるくらいだ」
とあの人が言うが、俺は無言を返事代わりにする。あの人はその返事を受け取り、小さいため息を俺に返球した。


 こうなれば誰かに相談してみよう。
 それが、俺が悩んだ末出した結論だった。
 一人で考えていても、どうなるものではない。しかし、相談するとなれば誰か。
 あの人はNGだ。センスパにノートパソコンを見ていたことがバレた、という事実を、あの人には伝えたくない。その部分を伏せて相談しても勘の良いあの人のことだ。すぐに見抜いてしまうに違いない。
 しかし、あの人の他にこんな恋愛沙汰を相談できるほど親しい奴はいない。と、なればここは――
 そう思って俺は昼休みに、目的の人物に声を掛けた。
「あのさ、ちょっと相談に乗って欲しいんだけど・・・・・」
「何?金銭的な相談以外だったら乗るけど」
 女史が俺の方に振り返った。


「――と、いうわけなんだ」
 俺は女史に相談内容をことさらに話した。もちろんセンスパが物の世界から来た女の子だ、などとは口が裂けても言っていないが、全面的に俺の責任でその女の子と喧嘩している、その女の子はどうやら俺のことが好きらしい、ということを話した後、アドバイスをお願いした。
 俺の話を真剣に聞いていた女史は一回二回と大きく頷き、そして口を開いた。
「キス、ね」
「はい?」
 女史の言葉が発されてから1秒未満の感覚で俺は聞き返した。女史はそんな俺にもう一度ゆっくり
「キスよ」
と繰り返した後、続けた。
「キスすれば全て解決。私だったらそれで許すわね。だってその女の子、あなたのことが好きなんでしょ?あ、もちろん付属する言葉も必要だけどね」
 そう言って女史は少しだけ考え込み
「これで許して貰えるとは思っていない、でも俺はお前と仲直りしたいんだ!とか、哀愁を漂わせながら言うのよ。うん、私だったらそれでOK」
「あの人がその台詞を言えば、そりゃ絵になるだろうけど・・・・・」
 俺がそう返事をすると、女史は腰に手をあてて少しかがみ込み、若干上目遣いで俺を見ると
「変な揚げ足とらないの!」
と怒ってから、にこりと笑った。


 帰り道のことである。
 俺は駅前にぶらりと立ち寄った。と、言っても目的がないわけではない。センスパに何か買っていこうと思ったからだ。
 物で全て解決するのは良いとは思わない。しかし、俺に浮かんだアイディアはそれくらいしかなかった。女史のアドバイスも、今は実行する気にはなれなかった。
 何も買わずに雑貨屋から出て、次の店に向かおうとした時、俺は向こうを歩いている人影に気が付いた。
「おーい!」
 俺はその人影に手を振ってから走り寄る。あいつが、そこを歩いていた。


「お、おう!」
 俺が駆け寄るとあいつも俺に気付いて軽く片手を挙げた。
「久しぶりだな」
 あいつは俺の方を見てにかっと笑った。俺も僅かに微笑み返し、唐突に本題に入る。これが俺とあいつの昔からのやり方だった。
「相談があるんだけど良いかな」
 するとあいつは腕時計に目をやってから
「ちょっとこれから用事があってな。長く話をしてられないんだ。長話にならないんだったら聞くぜ」
と言う。俺はその言葉を聞いて、早口で話を始めた。
 女史に相談した台詞をそのまま使用したのであいつへの状況説明は2分ほどで終わった。俺が話し終えると、あいつは
「そうか、そうだな・・・・・」
と意味ありげに呟くと顔をあげ、俺の肩にぽんと両手を置くと笑って
「その子の唇、奪っちまえ」
と言った。
「え、ちょ、お前・・・・・」
「悪いな、急いでるんだ。また今度ゆっくり話そうぜ!」
 俺の言葉を強引に振り切ると、あいつは手を振りながら走り去っていった。その場にぽつんと残された俺は頭の中であいつと女史の言葉をひたすら繰り返していた。


 何も買わずに家に帰った俺は、既に決意をした後だった。
 あいつと女史のアドバイスに従おう。それが、最良策だ。それが俺の導いた結論だった。
「ただいま・・・・・」
 俺がそう言っても返事はない。予想通りである。
 自分の部屋に入ると、センスパが自分のノートパソコンをしていた。が、俺が部屋に入るとセンスパは慌ててパソコンを閉じ、無言のまま部屋を出ようとする。
「ちょっとまって」
 俺はそう言ってセンスパを止める。ぴたりと音がするのではないかというくらい、センスパは急停止して俺の方に振り向いた。
「センスパ、あのさ――」
 俺がそう言った瞬間、部屋の電気がふっと消えた。
 否、部屋だけではない。家中の電気が消えた。窓から外を見る。周りの家の電気も、全て消えている。
 ――停電だ。
 俺はとっさにそう思った。外はもうまっ暗。雲があり、月明かりもない。
 その瞬間、俺の心臓がきゅんと縮まったような気がした。周りはまっ暗、暗い、暗い、暗い――
 俺の精神状態が乱れる。精神が乱れ、周り、回り、落ち、墜ち、そして、沈む――
 その時だった。
 俺の右手を、誰かがぎゅっとつかんだ。そして、その先の暗闇から声が聞こえる。
「大丈夫です、私がいます。大丈夫――」
 センスパだった。
 今にも気を失いそうになった俺の手を、センスパが握ってくれた。俺は正気を取り戻す。
 停電は3分ほどで解決され、すぐに電気がついた。その間、センスパはずっと俺の手を握っていてくれた。
 電気がついて俺は安心する。センスパもほっとしたような顔を見せ、そして気が付いたように自分の手を、俺から離した。
「ありがとう」
 俺がそう言うと、センスパは軽く頷いてから呟く。
「い、いえ・・・・・」
 すとんとベッドに腰を下ろしたセンスパに合わせて、俺もベッドに腰を下ろす。俺とセンスパの姿が二つ、並んでいる。
「あのさ、この前のこと、改めて謝りたい」
 俺はセンスパにそう言った。センスパは俺のことをただひたすら見つめてくれる。そんなセンスパに安心して、俺は真剣な顔を作って囁くように言った。
「その前に渡したいものがあるんだ。びっくりさせたいから・・・・・、少し、目を閉じて――」


 目の前にいたセンスパが不思議そうな顔をしながらゆっくりと目を閉じたことを確認して俺は、大きく深呼吸をした。
 精神を安定させる。今、自分が実行しようとしていること。それを頭の中で再確認、再認識する。そして自分自身の精神を再確認。システムオールグリーン。
「もういいよ」
 俺はそう言った。センスパは恐る恐る、しかし少し期待したような顔で目を開けた。
 その瞬間、俺はセンスパの顔を両手で柔軟に、けれどもしっかりと包み込んで、自分の顔を素早く近づけた。
 柔らかく、淡いキス――
 自分の経験の中でも短いキスだった。すぐに唇同志を離すと、俺は顔を少しだけ横にずらしてセンスパの表情を見る。なるべく、優しい目で。
 呆気にとられ驚くこともできずにいるセンスパ。俺は、その表情が崩れないうちに言葉を発する。
「あのときは本当にごめん。こんなので許して貰おうとは思ってないし、かえって軽率だとも分かってる。でも、俺にできるお詫びはこれくらいだ。これで俺のことが嫌いになったなら、それでいい――」
 俺のことをじっと見つめながら、センスパは少しの間、口を閉ざして黙っていた。だが、その沈黙には負けない。少なくとも、今の俺は。
 センスパの頬を軽く撫でて、俺は手を離した。それを見計らったかのように、センスパは片手で目を擦り、そうしてから口を開いた。
「嫌いなんかになりません。それにもう、あの時のことは許していました」
 徐々にうつむいていくセンスパだったが、その言葉はしっかりしていた。
「私、逆に貴方が私のことを嫌いになったのかと思っていたんです」
 俺が、そんなことない、と言うより前にセンスパは俺の腰に手を回してきた。そして言葉を継ぐ。
「私がいつまでも貴方のことを無視しているから、貴方もだんだん愛想を尽かしてしまったのかと思って・・・・・。だから、私の方からも話づらくて、それで、それで――」
 言葉の語尾がだんだんと震える。と、ともにセンスパは顔を俺の胸のあたりに押しつけてきた。強く、力強く。
 俺はセンスパの身体を抱き寄せる。部屋で抱き合うという光景も、新鮮なのだろうと思う。声を出さずに涙を流しているセンスパを逃がさぬよう俺は抱きしめる。
 俺の身体に挟まれながら、センスパは布のように薄い声を出す。
「――もう、日記見られちゃったから、言います」
「・・・・・うん」
 俺の相槌の後、少し沈黙してからセンスパは顔をあげ、俺の方を見上げて、言った。
「貴方が好き。好きです、大好き。もう、ここから離れたくないくらい、好きです」
 その目からこぼれる涙はとても幻想的で、そして真珠のように美しかった。
「ありがとう――」
 俺がそう返答すると、センスパは、ぱっと俺の身体から離れると俺の方を見ながら
「返事はいいんです。返事がほしくて、こう言ったわけじゃありませんから」
 笑っていた。涙を流しながらの笑顔は、今まで見たなかで一番綺麗で愛らしくて、可愛い。そう思った。



「起きてください、朝ですよ!」
 センスパの声で俺は目を覚ます。休日だったので寝坊しようと思っていたのだが、俺は時計を見てから目を擦る。
「まだ9時じゃないか・・・・・」
 俺が言うとセンスパは俺の掛け布団をはぎ取った。一気に身体が冷える。
「休みだからって寝坊は駄目です。早起きは三文の得という言葉があります」
 そう言いながらセンスパはにこにこしながら俺に一通の封筒を手渡した。
「これはなに?」
「貴方宛に届いていた封筒です」
 誰からだろう。そう思いながら俺は封を開ける。そして、中から白い一通の手紙をとりだした――




              (41話から47話まで掲載)


 10月4日。
 世間では何のことはない、ただの水曜日と認知されている今日だが俺にとっては指折り数えて待ちに待った特別な日だと言えた。
 そう、アニメ版ネギま二期の放送日である。
 その日、俺は学校が終わると全速力で自転車を走らせ家に戻ると、部屋にあるテレビの前に座り、そしてその時間をひたすら待っていた。
 某ラジオで放送されたため、既にセンスパがどのような曲なのかは知っていた。それに、流れていた情報から、今日放送される第一話分は主題歌が流れない、ということも分かっていた。
 だが、俺はこの日を楽しみにしていたのだ。
 センスパが好きだから、ということも勿論あったが、それだけではない。
 ハピマテと出会ってから、俺は素直にこの作品の虜になっていた。それは、認めざるを得ない事実であろう。
「センスパは、台詞が入ってるんだよね」
「はい、二番が台詞になっているはずです」
 センスパは、俺の問いに正確な答えを出してくれた。俺は続けて言う。
「うーん、賛否両論になりそうだ・・・・・」
 事実、ネットの中でセンスパを聴いた人達の反応は様々だった。
 サビの部分に共感する者、台詞を肯定する者に、そして否定する者。
 アニメの絵柄が新しくなったことに対してもそうだったが、今回は主題歌に関しても文字通り、賛否両論であると俺は思っていた。
「貴方は、どっちですか?」
 突然センスパに尋ねられ、俺は少し驚く。
「え?何が?」
「貴方は私について賛なのか否なのか、という意味です」
 俺がセンスパについて賛なのか否なのか・・・・・
 センスパの言葉を自分の心の中で復唱してから、俺は笑顔を作ってこう答えた。
「もちろん、賛の方だよ」
 その言葉を聞いた後のセンスパの表情がとても明るいものだったのは言うまでもない。


 翌日。
 いつも通り登校し教室に入ると、俺の席の横にあの人が立っていた。
「おはよう」
と挨拶をするとあの人は、返答もなしに話を始めた。
「はっきり言おう。今のままの盛り上がりでは、センスパはオリコン1位になれない」
 それだけの言葉が、俺の胸に響いた。
 それは、俺も考えていたことだった。
「確かに、VIPではハルヒ祭りが終わったあとだから士気も上がらないだろうね。アニソン板にそれらしいスレがあるけど、過疎過ぎる」
 俺はそう言った後、でも、と付け加える。
「11月8日の週は本当に穴場なんだ。ハピマテ5月度程度売れれば、1位になることができる。その週を逃すわけにはいかないと思う」
 あの人は俺の話を神妙な顔つきで聞いている。俺は最後にこう言う。
「――それだから、このチャンスを利用してセンスパを一位にしたい。なんとしても。」
 俺の話の後も、しばらく無言を保っていたあの人が、一度目を細めてから呟くように言った。
「君、どうしてもセンスパを一位にしたい理由があるみたいだね。ただの祭りに参加するような意気込みじゃなく・・・・・。何があるんだい?」
「それは――」
 俺は言葉に詰まった。センスパが、音楽の世界からやってきて、そのセンスパとの約束を守るために――なんて言えるはずないし、言ってはいけないことのような気もする。
「――何も、ないよ」
 自分でも無理なごまかしだったと思う。しかし、今の俺にはどうすることもできなかったのだ。
「――そうかい」
 あの人はそう言って、ふっと笑った。そして、口を開いた。
「今日、暇ならだけど、僕の家にこないかい?・・・・・面白いものがあるんだ」

 放課後。俺は家には帰らず直接あの人の家へとやってきた。これが三度目の訪問である。今でも、初めてあの人の部屋を目の当たりにしたときのインパクトの強さは忘れられない。
「さぁ」
 あの人はドアを開けると俺を招き入れた。俺もまるで小学生のように
「お邪魔します・・・・・・」
と腰を低くして入っていく。すると部屋の奥から
「おかえり〜」
という声がしたかと思うと、妹さんがクマの顔が刺繍してあるエプロンを着てぱたぱたと出てきた。片手には料理で使うと思われるお玉。その風貌はまるで幼妻である。
「あ、いらっしゃい〜」
 妹さんは俺がいることに気付くとそう言ってにこりと笑った。俺も釣られて微笑み返す。
「じゃあ僕の部屋に・・・・・・、あ、何か飲み物が欲しいかな」
 あの人は自分の部屋のドアを開けた後、妹さんに注文をする。妹さんは笑ったままで
「さっきコーヒー淹れたんだけど、それでいい?」
と尋ね返す。
「いや、彼は紅茶しか飲めないんだ。そうだよね?」
と今度は俺に尋ねるあの人。俺が
「いや、コーヒーを頂くよ。淹れなおしてもらうのは悪いから」
と答えると妹さんは少し舌たらずの声で返事をして、ダイニングの方へ消えていった。
「さて、どうぞ」
 あの人に連れられて入ったその部屋は、初めて訪問した時となんら変わっていなかった。いや、多少、レベルアップしたと言うべきか。
 ともかく、その外見からは想像できないようなポスターやフィギュアの山。そしてそこに無機質に置かれたデスクトップ型パソコンが一台。あの人は自分の鞄を置くと、すぐにその電源を入れた。ハードディスクがカリカリと音を刻み、コンピュータが立ち上がる。
「はぁい、コーヒーですよ〜」
 妹さんはコーヒーカップを2つ乗せたお盆を持って部屋に何の抵抗もなく入ってきた。
 俺はコーヒーを受け取って一口だけすする。やはり、あまりコーヒーという飲み物は得意でない。
 状況をごまかすために、俺は妹さんに尋ねる。
「もしかして、妹さんもこういう趣味もってる・・・・・、わけじゃないよね」
「私はそうじゃないですよ〜」
 妹さんは笑いながらそう答え、続けた。
「でも、兄がこうであっても嫌じゃないし、他の男の人の趣味にケチを付けたりもしません。私って、そういう性格なんですよ〜」
 ・・・・・確かにそういう性格でなければあの人の妹は務まらないかもしれない。
「それでは、ごゆっくり〜」
 妹さんはそう言うとすぐに席を外した。頭の回る、空気をよく読んだ退室だと俺は思う。あの人が何か秘密の話をするような、そんな雰囲気を放出していたからである。
「さっそくだけど、これを見てほしい――」
 妹さんが退室したのを確認したかのように、あの人は話し始めた。話ながらも目はコンピュータのディスプレイに向かっているし、手はマウスを操作している。
「ちょっと面白いページを見つけてね・・・・・。これはGoogleでサーチしても引っかからない、アンダーグラウンドに近いサイトみたいなんだ。アクセスカウンタも4桁。僕もブラウジングをしてリンクを辿っているうちに、たまたま見つけたんだけど・・・・・」
 片仮名ばかりの言葉で普通の人が聞いたら何を言っているか分からないかもしれない、そんな台詞だったが、俺には意味が理解できる。
「ほら、これ」
 あの人が示したウェブサイトを俺は横から眺める。
 そして、俺は仰天した。
 そこには、『物と人の世界間』や『物後の世界』、『物の人間化』などという単語が並んでいたからだ。――もちろん、まっさきに俺の脳裏によぎったのはセンスパやハピマテの姿であった。
 あの人は、俺がそのページの上部にあるサイト解説を読んだことを確かめたように話を再開する。
「こういった不思議な事例がいくつもあるらしいんだ。僕も最初は信じていなかった。だけど、こんなのがあったんだ――」
 あの人はそのサイトの中の『発見事例、公募』というリンクをダブルクリックする。
 出てきたのは、数々の体験談のような報告。掲示板やメールで募集したものをまとめて掲載しているようだ。投稿者の名前(ハンドルネームである)の後には括弧書きがあり、その中にはAmericaやGermanyなどといった。その本文は翻訳後のようなたどたどしい日本語であるが、何を言いたいかは理解できた。
 物の世界から現れたという人物が突然やってきて、自分をその業界で一番にしてほしいと言ってきた、という内容が2つ並んでいた。
「こういう似たような証言が世界の違う国から2件報告されている。そしてこれは、ハピマテ祭りと酷似しているね」
 あの人は自分の眼鏡をくいっと人差し指で動かした。
「これの本サイトの管理人はアメリカ人なんだ。その人は語学力が大分あるようで、友人にも手伝って貰って色々な言語で同じ内容のページを制作したと言っている。これは見ての通り、日本語版のサイトだ」
 あの人の説明もよそに、俺はその証言を何度も繰り返し読んでいた。考えてみれば不思議ではない。ハピマテもセンスパも、物の世界から人の世界へと期限付きでやってくるという行動は珍しくない、というようなことを言っていた。
「この証言者は二人とも、その“物”の願いを叶えるために全力を尽くしたと言っている。――それで君は、これについてどう思う?」
 あの人の問いに、俺は答えない。
 俺が答えないことを見越したようにあの人は、すぐに質問を変えた。その質問は、鋭い槍のように俺にストレートに突き刺さった。
「もっと突っ込んだ質問をすると、君はこれと同じ体験をした・・・・・、いや、今もしているんじゃないかと思ってね。どうだい?」
 ――沈黙。
「・・・・・いや、知らない」
 長い沈黙が続いたが、俺はそう答えた。
 真実を伝えると、センスパがいなくなるのではないかと不安だった。
 あの人はしばらく真剣な顔をした後、ふっと表情を崩したかと思うと
「そうかい」
と言った。
 永遠とも思われる沈黙が続いたのは、言うまでもないことだろう。


 その後、妹さんも混ざって少し雑談やゲームをした(任天堂のアクションゲームをしたのだが、意外なことに妹さんが強すぎて一人勝ち状態だった)。
 帰宅した俺を出迎えてくれたのは、いつも通りセンスパだった。
「おかえりなさい。ご飯を作っておきました。お母さん、今日は帰りが遅いそうです」
 母親の帰りが遅いのは珍しいことではなかった。俺は部屋で動きやすいジャージに着替えるとダイニングに降りてきて箸を持ち、手を合わせた。
 夕飯を食べながら、俺はできるだけ何気ないような調子でセンスパに尋ねる。
「センスパ、もしもだけど、俺が物の世界のことを他人に漏らしたらどうなる?」
 センスパは口をもぐもぐと動かし中身をごくんと飲み込んでから言う。
「どうなる、というと?」
「センスパが元の世界に帰っちゃったりとか、しない?」
「それはありません」
 お茶を口にするセンスパは、話を続ける。
「姉さんのことで分かっていると思いますが、基本的に私は定めた期限にならない限り帰りません。というか、帰れないんです」
「じゃあ、俺は知っちゃまずいことってある?例えば、センスパがこっちに来た目的とか・・・・・」
 俺は問いを連ねた。
「それは私がオリコン1位になるためですが・・・・・」
「それだけ?」
「えっと・・・・・」
俺の重ねる問いにセンスパは嫌な顔一つせずに答えてくれる。少し口ごもった後、センスパは真顔に戻って続けた。
「正直な話をすると、それだけではありません。それを教えても、まずいことではないです。でも、教えません」
「なんで?」
「私が・・・・・、恥ずかしいからです・・・・・」
 頬をさっと赤らめたセンスパは、照れ隠しのようにご飯に手を伸ばした。何に照れているのか分からないが、無理して聞くこともない。
 しかし俺の好奇心はとどまらない。既に目的は、あの人との会話から、センスパの世界に対する興味へと移り変わっていた。
「じゃあ、センスパのノートパソコンは?なんか、俺が見ちゃいけないみたいだけど・・・・・」
「あれにも、物の世界について知られると私が消えるような、そんなファイルは入っていません。・・・・・でも、個人的に見せられないんです」
「そっか・・・・・」
 それは、少し見たい気もする。
「物の世界について入っていることと言えば、物の世界の概念について、とかですかね。私が書いた文章ですが・・・・・」
「何それ?見てみたいなぁ」
 俺がそう漏らすと、センスパは少し悩んでから
「それはちょっと・・・・・、あんまり見られたくないですし・・・・・」
と答える。センスパはプライドが高いように見える。それと比例するように、自分のことを知られたくない、という気持ちも強いのだろうか。
 俺はそう思いつつも、センスパのノートパソコンの中身について、密かな興味を抱いていた。そのことは多分、センスパには知られていない。その証拠にその夜、センスパはいたって普通に俺の部屋でパソコンを操っていた。俺の目線も気にせずに。
 もちろん、センスパのプライバシーを侵害するつもりはない。しかし、そういう興味というのは、誰にでもあることなのでは、ないだろうか――


 翌日。行きたくもない学校へ行き退屈な授業を受け、その間にある休み時間での友人との交友を唯一の楽しみにしながら放課後を今か今かと待ちわびていた俺は昼休み、少しだけ、驚きの出来事に出会うことになる。
「ねぇ、ちょっと・・・・・」
 昼休みに弁当を食べ終わった俺にそう手招きをしたのは、いつも通りの眼鏡を掛けた女史であった。
 女史に頼まれ生徒会執行部に入部した俺だが、結局簡単な書類を書いた以外、俺はまだ生徒会らしい仕事をしていなかった。
 そんな俺に女史はこう告げる。
「ちょっと今から、生徒会室に来てほしいんだけど」
 やっとなにか生徒会らしい活動をするのだろうか、と俺は思いつつ女史に連れられて生徒会室へと向かった。
 普段はほとんど鍵がかかっており生徒会の活動がないとき以外は開かずの間となっているその部屋の扉は、今日の昼休みに限ってのことか、いとも簡単に開いた。
 そしてその中には、これも今日に限ってのことなのかは分からないが、一人の高学年らしい女子生徒が待ちくたびれたような仕草をしながら、そこにいた。
「お待たせしました、先輩・・・・・」
 女史はそう言った。よく見てから、俺もこの先輩が誰なのか思い出した。集会の時など、毎回のように司会を行っているから記憶にも残る先輩である。
 すらりとした身体と透き通った声が特徴的である、と思う。女史とこの先輩は執行部内でも親しいようで微笑を交えながら多少の会話をすませ、そうしてから女史は先輩にひそひそと耳打ちをした。
 連れてこられたわりにまったく仲間はずれな俺は、特に何をするわけでもなくその場で二人のやりとりを眺めていた。
 すると女史は驚いたことに頬を微量ながら紅潮させながら、
「それじゃあ・・・・・」
と先輩に言い残して生徒会室去っていった。
 どうしていいか分からない俺に先輩は優しく、透き通るような声で語りかけるように言った。
「あなたのクラスに、えらく頭の良い男子がいるでしょう?」
 俺は考える。いや、考える必要もなかった。それに該当するクラスメイトは、あの人しかいない。
 俺があの人の名前を挙げると先輩は微笑んで
「そう、その彼よ」
と囁くように言ってから、こう続けた。
「その彼のことが、好きなのよ」
「・・・・・へ?」
 すっとんきょうな声をあげてしまった俺を見て先輩は再び顔に笑みを浮かべた。
「・・・・・あの人のことを、ですか?――誰が?」
 俺はたまらず尋ねる。この口調では、この先輩が、あの人のことを好いている、という話ではなさそうだ。
「だから、あの子が」
 先輩は答えた。あの子、というと、この状況ではさっきまでこの場にいた一名しか該当しないであろう。
「――女史が、ですか?」
「そう」
 俺の質問に先輩は頷く。
 女史は、あの人が好き・・・・・・
 何も驚くことではない。あの人は特に女の子からモテる。それは中学校から不動のことであったから、あの女史が、あの人に対してそういう感情を持っていても不思議ではない。
「だからね――」
 俺の思考を中断させるように、先輩は言葉を継いだ。
「あなた、その彼と仲が良いでしょう?だからそんなあなたに、彼と上手く付き合いが持てるように、手を貸してほしいっていうこと」
 ――女史が、そんなことを俺に頼め、と言ったんですか?
「その通りよ。面と向かってじゃ、恥ずかしかったんだと思うわ」
 先輩は、みたび俺にほほえみかけた。俺は考える。
――あの人と女史か。眼鏡カップルでお似合いかな。美男美女のカップルだし・・・・・
「はい」
 俺は顔をあげて、先輩の方を見てこちらも笑うと、こう言った。
「分かりました。あの人には何か言って自然に二人でデートに行けるように取りはからってみます」
 その言葉を聞いて先輩は予想通り、というような反応をした後、
「よろしくね。私の大切な後輩のためだから」
と言い、
「あの子は先に教室に戻るって。ふふ、ご苦労様」
と俺にその白い歯を向けた。
 俺は、失礼します、と先輩に告げて生徒会室を去ろうとした。
 その時、先輩は俺の去り際に、俺の背中に向かって、優しく言った。その甘い声は、何者をも凌駕してしまうような美しさだった、と俺は後になって思う。
「あなた――、ふふ、少し残念そうね」


「――と、いうわけなんだ」
 昼休みが終わる間際、俺はあの人に話しかけ、明日の土曜日、女史と二人きりで何処かに出かけて欲しい、という趣旨の事を告げた。
 あの人は無言で俺の話を聞いていたが、俺が話し終えた後、少し考え込んでから
「何故そんな事を君が僕に対して頼んでいるのかは、あえて尋ねないことにして――」
 そこであの人は一度言葉を句切って
「分かった。君が言った通りのことを、明日しよう」
と言った。
「ありがとう、よろしく」
 俺がそう言った時、チャイムが鳴って教師が教室に入ってきた。俺は慌てて席についた。


 翌日。
 あの人と女史のデートが気になり、こっそり見に行こうかとも思ったが、せっかく二人きりなのだから水を差しては悪い。それにあの人は三次元には興味なしなのだから、それほど気になることでもないだろう。女史の恋は叶いそうにない。可哀想ではあるが、あの人の性格からして仕方がないことなのだ。
 俺はそう思い、一週間待ちに待った休日を寝坊してスタートさせようとしていた。
 が、俺のその願いも叶うことはなかった。
 昼過ぎまで寝ている予定であったが、朝9時になると俺は目を覚ますことになった。
「朝です、起きてください。おはようございます、早く、早く起きてください!」
とセンスパにたたき起こされたからだ。
「今日は12時まで寝てる予定なんだよ・・・・・」
 俺はそう言って布団を被るがセンスパはそれをはぎ取った。
「いいから早く起きてください!」
 一文字ずつ区切って言い聞かせるようにそう言ったセンスパに熱気に負け、俺は起きあがった。
「それじゃあ、着替えたら降りてきてください。急いで、ですからね」
 センスパはそう言うと部屋を出ていった。
 俺は何故センスパがそこまで急いでいるのか、知る由もなく着替えをして、言われた通りダイニングへと降りていく。
 そこにはよそ行きの格好をしたセンスパがいた。
「朝飯は・・・・・」
 俺が呟くと、センスパはきっぱりと
「ありません」
と言い捨てた。
 そして、俺に問いをさせる暇も与えずにセンスパは、
「はい、財布を持ってください。髪をとかして・・・・・、顔を洗ってきてください。そうしたら、出発しますよ」
と言いながら俺を洗面所にぐいぐいと押した。
「出発するって、何処に?」
 当然の質問を俺がすると、センスパは
「あれ、言っていませんでしたか?」
と言ってから、珍しく微笑んで、そして言った。
「遊園地です、すぐそこにN遊園地。今から行くんです」


「なんでこんなに急いだの?」
 朝飯も食べずに悲鳴をあげる腹をさすりながら、やっと電車に乗って落ち着いた俺はセンスパに尋ねた。
「今日の10時まで入場すれば、入場料が半額なんです。テレビでやってました」
と答えるセンスパ。成る程、そういうことか。入場料くらい、気にしなくてもいいのに。
「でも、安くすむならそれで済ますべきです」
 そう言うセンスパの言葉はもっともだと思う。しかし、朝食を抜くこともなかったと思うが・・・・・
「実は私もまだ何も食べてないんです」
 センスパは言う。
「遊園地内のファーストフード店で食べましょう」
「うん、そうだね」
 そんな話をしているうちに、遊園地前の駅まで着いた。
 遊園地へと入場する俺とセンスパ。滑り込みセーフだったが予定通り半額の入場料である。
 ゲート近くにあるファーストフード店に入り、空いている店内で俺とセンスパは軽めのメニューを注文する。センスパは子供向けのおもちゃがオマケとしてついてくるメニューを頼みはしゃいでいる。
 普段は見られないような表情をしているセンスパはいつもよりテンションが高いように見える。普段はとても冷静であるが、もしかすると、元々は姉であるハピマテとそっくりの性格なのかもしれない、と俺は思った。


「じゃあ、始めはどれにしようか」
 遅い朝食を食べながら、俺はセンスパにパンフレットを見せた。俺は何度もこの遊園地には来ているので、アトラクションをほぼ暗記していしまっている。
「ジェットコースターに乗ろうか。乗ったことある?」
 俺が尋ねると、センスパはパンを頬張りながら
「逆にお尋ねしますが、貴方はCDを抱えてジェットコースターに乗ったことがありますか?」
と訊いてきた。
「・・・・・いや、ない」
と答えた俺を見て、センスパは満足したように言う。
「それと同じで、私は初経験です。遊園地に来ることも初めてです。ただ、ジェットコースターというのが朝食の直後に乗るようなものでないことや、遊園地デビューの人が一番に乗るような代物でないことは知っています」
 そんなセンスパの様子を見て、俺はふと思ったことを口にする。
「もしかして、怖いの?」
 するとセンスパは急に慌てたような口振りで
「な・・・・・・、そ、そんなんじゃありません!それくらい平気です!ただ、私は・・・・・、その・・・・・」
と語尾を濁した。
 そんなセンスパを見ていると、自然に顔がにやける。俺はパンフレットを再びセンスパの前に広げると
「じゃあ、何に乗りたい?」
と尋ねる。センスパはじっとそれを見つめていたが、パンフレット内の一箇所を指さすと
「・・・・・これがいいです」
と言った。その指の先にあったのは、子供向けのキャラクター遊具。
 いつもより大分子供なセンスパを見て、俺は微笑む。そうしてから俺は目の前の朝食を平らげ、センスパも食べ終えたことを確認してから言った。
「OK、じゃあ、それに乗ろうか」


「あ・・・・、ひ・・・・・、き、きゃ・・・・・」
 悲鳴にもならない悲鳴をあげているのは、俺の横に座っているセンスパである。
 時刻は昼過ぎ。ジェットコースターの座席に座って、落下するタイミングを今か今かと待っている状況だ。
 あれこれ理由をつけてジェットコースターを避けるセンスパを、無理矢理アトラクションに乗せたは良いが、センスパの恐がり方を見ていると少し可哀想になってきた。
 いつのまにかセンスパは隣の座席で俺の手をしっかりと握っている。その顔面は蒼白だ。
 そして、いざジェットコースターが落ちるという時、センスパは俺の手を握りつぶさんばかりに握った。その汗が噴き出る手が、なんとも可愛らしかった。


「どうだった?」
 ジェットコースターから降りてから、俺はセンスパに尋ねる。
「・・・・・もう嫌です」
「もう一回乗ろうか」
 俺は冗談口調でねてみるが、センスパはぶんぶんと首を横に振った。
「やめてください!」
 そんなセンスパを見て俺は笑う。
「センスパはどれに乗りたい?」
「私はさっき乗ったクマの奴にもう一回乗りたいですけど・・・・・、男性の貴方が何度も乗るのは恥ずかしいでしょう?」
「いいや?」
 俺はセンスパの顔を見る。
「そうかな、別に乗っても良いと思うけど。カップルみたいで」
 俺のその言葉を聞いたセンスパは、とたんに頬を赤らめた。
「・・・・・へ、変な冗談を言うのは、やめてください」
 そう言うセンスパの手を、俺は自然な形で握る。
「じゃあ、もう一回、さっきのに乗ろうか」


 結局、夕方まで遊園地で遊んでいた俺とセンスパは、ほとんどのアトラクションを楽しみ尽くしたため電車に乗って自宅へと帰った。
 駅前でジュースを買って意味もなく立ち話をする。
「センスパは、いつかは物の世界に帰っちゃうんだよね」
「そういうことになりますね。仕方がないことなんです」
「こっちの世界に、残っていたいと思う?」
 俺の問いに、センスパは少しだけ沈黙した。
 そしてその沈黙の後に、少しだけ赤面しながら、しかし笑顔でこう答えた。
「はい、もちろん」


 トイレに行ってkる、と告げ、俺は駅の中のトイレを探した。
「えっと、何処かな・・・・・」
と不必要な独り言を呟きながら小走りで周りを見回していると、突然誰から肩を叩かれる。
「ん?」
 そう言って振り返ると、そこにいたのは、あの人だった。
「やぁ」
「・・・・・・よぅ」
 短い挨拶を交わした後、あの人は真剣な顔で一度、眼鏡に手をやると、話し始めた。
「偶然だけど君たちの話を聞かせて貰ったよ。物の世界、何か知っているみたいだね。・・・・・教えてもらおうか?」
 突然のあの人の登場に俺は驚いたが、センスパとの話を聞かれていたことを伝えられ、俺はさらに驚くことになった。
 あの人に、センスパという女の子が物の世界からやってきたことは秘密にしていた。が、センスパと物の世界について話をしていたところを聞かれてしまった。これは、ごまかしようがない。ない、が――
「きょ、今日は何処に行ったの?」
 あの人にどう説明して良いのかまったく思いつかなかった俺は、まったく別の話題を持ち出した。ごまかしの基本である。
「隣町の水族館に行ったんだ。少し遠かったね」
 あの人は思った以上に気楽に返答してくれた。
 俺は続けて尋ねる。これも時間稼ぎだ。
「で、どうだった?」
「うん、小さいペンギンがたくさんいてね、行進しているんだ。とても愛らしかったよ」
「いや、そういう話じゃなくて・・・・・」
 俺が言うと、あの人は無表情のまま、しかしほんの少しだけ強い口調で、
「それはこっちの台詞だ。そろそろ、聞かせて貰おうか」
と言う。
 俺は溜息をついて、頭の中をクリアにする。そして言葉を選びながら、あの人に話を始めた。
 ハピマテのこと、ハピマテとの別れ、そしてセンスパとの出会い――
 自分の全てを話し終えた俺は一呼吸置いた。否、ハピマテとの恋愛については秘密のままであった。
 要約をして話すのに約10分。その間、終始無言を保っていたあの人は喋るということをふと思い出したかのようなそぶりで、口を開いた。
「成る程、うん、そういうことか。にわかには信じがたいけど・・・・・、僕の方から訊いたんだし、君がそう言っているんだ。信じよう」
 あの人は一度眼鏡を直すと、俺の方を見つめ、尋ねる。
「君、物の世界について詳しいことはしらないの?」
「いや・・・・・、センスパのノートパソコンに何か入ってるみたいだけど、見たことない」
 俺がそう言葉を漏らしたのが、後から思えば原因だったのかもしれない。
 あの人は俺の言葉を聞いて、にやりと笑うと一呼吸置いてから、口をゆっくりと開いて、発音した。
「そうか、それじゃあ――」


 ――帰宅した俺とセンスパは丁寧に手を洗ってから俺の部屋に戻った。
 と、俺の携帯にメールが入る。
『今日はありがとう。おかげで彼と楽しめたよ』
 女史からのメールだった。何とも微笑ましいメールだと思いつつ、俺は返信をする。
「なんですか?誰からですか?」
 センスパが横から携帯の画面を見ようとするが、俺はそれを上手くかわし
「いやいや、これを説明するには相当長い時間を使うと思うから、黙秘権を使っておくよ」
と答える。それが正解だろう。
 センスパは諦めたように自分のノートパソコンを開いた。その様子を見て、俺は先ほど交わしたあの人との会話を思い出す。
 俺がセンスパのノートパソコンのことを教えたその後、あの人が不気味に笑った後に言った言葉――
「――じゃあ、今度そのコンピュータの中身を拝見しようか。・・・・・なに、黙ってればバレないよ」
というその言葉は、妙な冷たさと、何故かそそる興味があって、俺の背筋を冷たくした。



              (33話から40話まで掲載)


「おーい、そっちもっと引っ張れ!」
 あいつが声を張り上げている。俺はその言葉に従う。
 あいつは手慣れた手つきでテントを作っているところだ。そのあいつにこき使われて、その場にいる俺とあの人はテントを一つ作り終え、二つ目のテントに取りかかった。
 今、俺が来ているのは自宅近くの駅から電車に乗ってすぐのところにあるキャンプ場である。何故、高校生にもなってキャンプに来てテント張りをしているのかというと、それはあいつによる唐突な思いつきが、俺の携帯に舞い込んできたところから説明しなければならない――


『突然だけど、みんなでキャンプ行こうぜ』
 その日、あいつの携帯からやってきたそのメールを見た俺は、言葉が出なかった。
 ――キャンプだって?・・・・・・なんのために?
 俺はあらゆる自問をくり返したが、答えはなかなか出ない。仕方がないので、俺は返信をした。
『どういうことだ。目的は何?』
 あいつからメールが返ってくるのは、いつになく早い気がする。
『目的は、暇な三連休を有意義に過ごすためさ。他にはない。今度の三連休、キャンプに行こう、っていうことな。お前がOKなら、詳細を伝える』
 そういえば、さっきあの娘が言っていたな。「彼がまた変なことを考えている」と――
 やれやれ、か。俺の教訓だと、あいつの提案に乗って悪い事はまず起きない。それに、三連休は幸か不幸か、完全にフリーの状態であった。
 俺は自分のベッドに腰掛けながらメールを打つ。
『三連休は暇。詳細を聞いて、悪くなければ行くよ』
『期日は言ったように次の三連休。場所は近場のキャンプ場だ。お前も知ってるよな?I岳近くのところ。誘うつもりでいるのは、お前とあの人だけ。ただ、一つだけルールがある。それは、各自が一人ずつ、女の子を誘うってことだけ。OK?』
 あいつから返ってきたメールを、俺は3回読み直した。そして、やはり最後の一文で頭を悩ませた。
『女の子を誘う?どういうことだ』
『言葉通りだよ。俺とお前とあの人。それぞれが一人ずつ、女の子をキャンプに誘うんだ。だから、参加者は男3人、女3人の6人になる。じゃ、そういうことだから。あの人はもう承諾したぞ』
 ――しかし、これは困った。
 女の子を誘う、となっても、俺の高校に誘えるほど仲の良い女子はいない。
 他校として思いつくのは、今日会ったあの娘くらいだろうし、しかし、あの娘はあいつがキープしているに決まっている。妹さん、という手がないこともないが、その線もあの人がキープしているであろうから、やはり消えだ。
 と、なると、残るは――


 ――と、そういう経緯があって、今、俺の横では
「これを地面に打つんですね?」
とハンマーを持っているセンスパがいるわけである。
 当日になってやってきた、俺、あいつ、あの人の他の二人は予想通り、あの娘と妹さんであった。そして、俺が連れてきたのはセンスパである。
 女の子を連れてこい、と言ったあいつの目的は、理解できるようにして理解できなかったが(あいつには、あの娘がいるわけだし)、まぁ、この際それはどうでもいい。
 センスパは見た目は中学生だし、妹さんは正真正銘、本物の中学生だ。しかしあいつはやって来た女子組が二人とも中学生であったことに対して特に気にしている様子もない。
「よーし、テントも作り終わったし、さっそく一日目イベントのバーベキュー大会に入ろうぜ!女子のテントはあっちの奴だから、荷物は向こうに置いてくれ」
 あいつは数十メートル離れたテントを指さしてそう言ったあと、自分の荷物を今作っていたテントに置いてから、河原の方にダッシュした。
 時間は夕方。いい感じに夕日が照っており、少し早い夕食としてはちょうど良いだろう。
 あの人も、自分のリュックをテント内に置いてから、俺に向かってよく分からない微笑みを向け、河原の方へ歩いていった。
 現に俺自身、今の心境は最高に近かった。こんな事は中学以来ではないだろうか。気分が盛り上がってきた俺の顔にも、よく分からない笑みが浮かんでいたことだろう。


「ほぉら、あーんしようよ。キャンプでバーベキューするときの定番だよ〜」
「そんな定番は今まで生きてきて、聞いたことがない」
 バーベキューで焼いた串を差し出す妹さんと、それを軽くあしらいながら自分で肉をつまみ上げ食べるあの人。
 そしてその、見るからにつり合っていない兄妹をまじまじと見つめている俺、あいつ、あの娘の三人。
 俺達の行動は、当たり前と言えば当たり前である。今、あの人に対して微笑みながら串を差し出している女の子があの人の妹さんだとは、見た感じで、ではあるが誰も予想できることではなかろう。
 俺があいつに妹さんのことを紹介した時は、あいつもあの娘と同じような反応を取った。
「ねぇ、ほら、口開けて〜」
「第一こんなことしないでも、他に食べさせてあげたい人がいるんだろう?」
「もう、女心くらい分からなくちゃ駄目だよ、そんなこと言っちゃ駄目なの〜」
「女心なんて、分かる必要ないね」
 そんな会話を凝視していた俺だったが、ふと振り返るとそこではセンスパが複雑な表情で野菜をつまんでいた。
「退屈?」
 俺はセンスパの方に近づいていって言う。
「そんなこと、ないです。楽しいですよ」
とセンスパは答えたが、とても楽しそうには見えない。
「・・・・・・妹さんみたいに、あーんしたいの?」
「そんなんじゃありません!」
 俺の冗談を真に受けて怒ったセンスパを見て笑いながら、俺は
「ほら、みんなと一緒に食べようよ」
とセンスパを誘導する。センスパは、素直にそれに従った。


 夜になって、俺達はテントに入った。男子三人になったテントは、一瞬静まりかえったわけだが、その後もずっと静かだったかといえば、そんなはずはない。
 あいつは懐中電灯をつけると、にやつきながら俺に尋ねる。
「さて、本番の始まりだ。あの女の子との関係を教えてもらおうか」
 あの女の子、というのはセンスパのことだろう。俺は、首を軽く横に振りながら
「別にそんな、さっきも言ったけどただの親戚だって」
と答える。さすがに、センスパの正体は明かさないべきだ、と思ったからだ。
 すると、今度はあの人が口を開いた。
「でも、血縁関係はないんだろう?」
「まぁ、それは・・・・・」
「それじゃあ、特別な関係であっても不思議じゃないね」
 そこまで言うと、あの人もにやりという、不気味な笑みを浮かべた。
 俺はその後も、困って弁解を繰り返す。あの人は、
「じゃあ本当に何でもないんだね?」
と確認をしてきた。俺はもちろん、
「ああ」
と返事をする。すると、あの人は
「それじゃあ・・・・・」
と言ってあいつの方を向くと、一言二言、耳打ちをした。
 あの人から耳打ちを受けたあいつは
「ははっ、そりゃいいや」
と笑いながら返事。俺にはまったく何のことだか分からない。あの人とあいつは俺の方を見ると、二人揃って意味不明の笑みを向けてきた。俺は、よく分からないまま釣られ笑いをするしかなかった。


 深夜になって、あの人とあいつも眠りについた。俺も翌日にそなえて眠っていたが、ふと目が覚めたため、トイレに行ってから寝ようとテントを出た。
 肌寒い外を歩く。電灯がついているので、暗闇でもない。
「あれ、何してるんですか?」
 声がしたので驚いて振り返ると、そこにはセンスパが立っていた。俺は
「いや、ちょっとトイレに・・・・・」
と答えて、センスパの方を見る。
「あのさ、パジャマのボタン、上の2つ、外れてるよ」
「えぇっ」
 俺に言われ、センスパは慌ててボタンを閉めた。言わないでおくべきだっただろうか。色々な意味で。
 ――と、センスパは急に上を見上げる。俺も、釣られて上を見る。
「星、綺麗ですね・・・・・」
 センスパに言われて、気が付いた。確かに、凄い星である。町中から離れたこのキャンプ場では、星がよく見える。おまけに今日は夜まで快晴。俺は、先日行った天文台のことを思い出した。
「ああ、綺麗だ・・・・・」
 俺は答えて、センスパの方にむき直す。空を見上げながら、自然な、作り笑いでない自然な笑みを浮かべているセンスパは、今までみたことのないくらい魅力的であった。
「あ、あれ?」
 今度は別の方向から声がして、俺とセンスパは同時にそっちを振り返る。そこに立っていたのは、フリルのついた可愛いパジャマを着た妹さんだった。
 妹さんは、ほえ〜、と溜息をついた後に、にっこりと笑ってから言った。
「やっぱり二人とも、ラブラブなんですね〜」
 ――やっぱり、というのはどういうことだろうか。そんな話したかな・・・・・
 その言葉にセンスパは慌てたように
「な・・・・・、だ、だから、そんなんじゃないんだってば・・・・・」
と返事をする。一方、妹さんは慌てた様子もなく
「そっか〜、そうなんだ〜、えへへ、ホントかなぁ?」
とセンスパに笑いかけた。
 なんだか状況がまったく読めないが、センスパが、今日で一番楽しんでいるように見えたので、俺の心の何処かで安心に似た感情が芽生えたような気がした。


 次の日は、昨日にバーベーキューをした河原での魚釣りやちょっとした登山大会、夜には花火を行った。もちろん、どれもキャンプ場の許可を得て行ったものであることを、断っておく。
 さて、時間は深夜になった。正確な時刻で言うと、0時4分過ぎである。
「じゃあ、今日の本題を始めるぜ。キャンプの定番、肝試しだ」
 あいつがにやにやしながら言う。その場に集まったあいつ以外の5人は、呆れた顔をしたり真剣な顔をしたり笑顔だったりとまちまちだが、全員があいつの話を聞いていることは確かだ。
「コースはそこの林道だ。その林道の一番奥にある原っぱには、俺が昼間のうちにお札を人数分置いてきてある。ルールはシンプルで、そこの林道を歩いてお札を取ってくるだけだ」
 あいつはそう言った後、ところで、と付け加える。
「今回の肝試しにはシナリオ付きなんだ。俺作のシナリオがな。じゃあ、そのシナリオから説明するぜ」
 あいつはおどけた様子で懐中電灯を顔の下から照らして不気味な表情を作りながら、説明を始めた――


 つい最近のことである。
 今の俺達のように、若い男女のグループが此処に集まって肝試し大会を行った。
 ルールも、俺達と一緒。一人ずつ林道を歩き、一番奥の原っぱを折り返し地点として戻ってくるというものだった。俺達と違うところは、その若者グループが懐中電灯も何も使わない、完全に暗闇で肝試しを行ったことだけであった。
 この林道の往復には20分ほどかかる。その若者グループは一人ずつ、五分おきに出発させた。
 その中に一人、女がいた。仮に、A子としておこう。
 A子は先に他の友達が出発してからきっかり5分後に、出発した。
 傾斜のほとんどない、なだらかな整備された道を少し歩いていると、向こうから先に行った友達が戻ってくるのが見えた。往復して戻ってきたようだ。
 A子は帰り道にさしかかっている友達とすれ違いざまに数秒間だけ話をして別れると、また先へと進んでいった。
 A子は折り返し地点の原っぱについて、一度そこで寝転がった。あまりにも星が綺麗だったため、空を眺めたくなったのだ。
 一分くらい寝ころんでいただろうか。A子は起きあがると、歩いてきた道を引き返して、スタート地点へ戻るために再び歩き出した。
 しかし、そこで違和感に気が付いた。
 自分の5分後にスタートしたはずの男友達となかなかすれ違わないのである。
 自分は原っぱで時間を潰してしまったため、すぐにその男友達とすれ違う計算だった。時計を確認するが、自分がスタートしてから15分経過している。まさか、男友達は何処かへ消えてしまったのではないのだろうか。
 そう思ったA子は急に怖くなって、早足で歩いた。道に転がる小石に何度もつまずいたが、そんなことを気にしている場合ではない。心なしか、帰り道がとても長く感じられた。
 結局、A子は男友達とはすれ違わなかった。A子がやっとの思いでスタート地点に戻ってみると、そこには友達が全員揃っていた。
 A子は安心した。自分の後をスタートしたと思っていた男友達は、出発していなかったのか。それなら、すれ違わないはずだ。
 すると、その男友達は言ったのである。
「A子、お前、何処に行っていたんだ?俺、ちゃんとA子の5分後にスタートして戻ってきたけど、A子とは出会わなかったぞ?」
 A子の背筋に寒気が走った。
 A子も確かにルール通りの行動を取った。そして、A子は男友達とすれ違わずに戻ってきた。男友達も、ルール通りに進んで、A子とはすれ違わなかった・・・・・
 全員が不思議に思っていた時、誰からというわけでもなく、こんな言葉が漏れた。
「A子、あなた、もしかしたら神隠しにあったんじゃない?」
 それから、林道の原っぱにはお札が置かれることになったという――


「――と、こういった具合のシナリオだ。ちなみに、俺が完全原作。今日即興で考えたことだから、完全にフィクションだということは断っておこう」
 あいつの話は、実によくできた怪談だった。あいつにしちゃ、かなり上手い作り話である。大分、怖い。
「俺達は懐中電灯を使用するぜ。ちなみに、ちょうど6人いるから男女のペアで行おうと思う。ペアは、普通に、でいいな?」
 普通に、というのは、あの人と妹さん、あいつとあの娘、そして俺とセンスパのペア、という意味だろう。
 全員もそう解釈したらしく、素直に頷いた。
「それじゃあ、最初は俺達のペアからだ!あ、そうそう、この林道、結構道が入り組んでるから簡易地図を用意したぜ」
 あいつはそう言ってB5版の紙に描かれている手書きの地図を全員に配ると、あの娘を連れて
「それじゃ、行ってきます。次はあの人のペア。俺達がスタートした5分後にスタートしてくれよ」
と、林道の中へと入っていった。あの娘は少しも怖がる様子を見せず、あいつと何か話ながら、そのまま暗闇の中に姿を消した。
「ねぇ、君、暗闇ってことだけど大丈夫なの?」
 あの人が話しかけてきた。俺は笑って答える。
「うん、少しでも明かりがあれば大丈夫になったから。」
「それならいいんだ、さて、時計を確認しておかないと」
 あの人はそう言って、自分の腕時計を見た。


「じゃあ、行ってくるよ。神隠しにあわないように注意してね・・・・・」
「あーん、怖いよう〜」
と言ってあの人と妹さんが出発してから、5分が経過したのを俺は自分の腕時計で確認する。
「それじゃあ、行こうか」
 俺が言うと、センスパは
「は、はい」
と幾分緊張した口調で答える。どうやら、怖いようだ。
「なあに、大丈夫さ」
 俺はそう言って懐中電灯のスイッチを入れると、一人で林道の入り口へと向かった。足音で、後ろからセンスパがついてくるのが分かった。


「懐中電灯あっても、結構暗いもんだね」
「大丈夫ですか?」
「ああ、うん、俺は平気」
 あいつから渡された簡易地図を頼りに、道を進んでいく。途中で獣道のようなものが脇にそれているのを見つけたが、ほとんど一本道なので迷うことはなさそうだ。
 ――と、向こうから歩いてくる影が見えた。
「お、よう」
 あいつとあの娘のペアであった。二人は折り返しをすぎて帰り道のようで、手にはあいつの言っていたお札が握られていた。
「月明かりもあるし、そんなに暗くないのね」
 あの娘は俺と正反対の感想を述べた。センスパは黙って周りをきょろきょろと伺っている。
「あの人達のペアとも会ったぜ。じゃ、頑張れよ」
 あいつはそう言うと、あの娘を引き連れて俺達が歩いてきた道を引き返していった。
「じゃあ、俺達も進もうか」
 センスパにそう言って、俺は懐中電灯で前方を照らしながら、再び歩き出した。


 目の前に大木が姿を現した。あいつの地図にも、この大木は記されている。この木が現れたということは、折り返し地点の原っぱまでもう少し、ということである。
「・・・・・これ、おかしくありませんか?」
 ふと、センスパが言った。センスパは続ける。
「だって、あの人と妹ちゃんペアと、すれ違いませんよ・・・・・?」
 ――言われてみれば、確かにそうだ。
 俺とセンスパは、もう折り返し地点に近づいている。それなのに、あの人と妹さんペアを目にしないのは、明らかにおかしい・・・・・
 俺の背筋に寒気が走る。あいつの作り話の怪談を思い出す。あの話の状況に、酷似している・・・・・
 その時だった。
 俺の肩の上に、後ろから手が置かれた。
 センスパが悲鳴をあげて、俺に抱きついてきた。俺も、大声を出しそうになる。
 冷静になれ。
 自分にそう言い聞かせて、そっと後ろを振り向いた。
「やあ」
 いつもの二倍速になったと思える俺の心臓が、一気にきゅんと縮んだような気がした。
「わーい、引っかかった〜」
 そこにいたのは、楽しげに笑っているあの人と妹さんだった。
「ずっとそこの木の陰に隠れて、驚かせようとしたんだ。悪いね、こいつがどうしてもっていうから」
 そう言って、あの人は妹さんを指さす。
「びっくりしました?びっくりしましたよね?えへへ、びっくりしたから、抱きついたりしてるんですよね〜」
 妹さんの言葉に、センスパは我に返ったように俺の身体から離れると
「しょ、衝動的に近くにあった物に掴まっただけです!」
と言いながら、無気になって怒った。こういうところが、センスパの魅力なのだと思う。
「それじゃ、後は頑張れ。神隠しにあったら、僕が探してあげるよ。見つけられるかどうかは、微妙だけどね」
 あの人はそう言って手を振ると、俺が歩いてきた道を引き返していく。妹さんもにこにこしながら軽くお辞儀すると、それに続いた。
「ふぅ・・・・・、びっくりした・・・・・」
 俺は呼吸を整える。心臓の動きも、正常に戻ってきた。
 照れ隠しなのか、少し先まで走っていたセンスパが、声をあげた。
「原っぱです」
 俺も走ってそこまでいく。確かに、そこには小さな原っぱがあった。そして、その真ん中にある岩の上に、お札が置いてある。
「あとはこれを持って帰るだけだ」
 俺はお札を取り、ポケットに入れる。
「えっと、俺達が来たのは、この道だね」
 俺は地図を見て、そう確認した。と、いうのも、その原っぱには3、4本の道への入り口があったのだ。つまり、この林道にある数々の道の中間地点が、この原っぱだということだろう。
「早く帰りましょう」
 センスパは心なしか怯えた口調でそう言った。俺は笑って、頷いた。


「やぁやぁ、お疲れさま」
 林道を抜けて、無事、スタート地点まで戻ってきた俺とセンスパは、そんなあいつの言葉に迎えられた。あいつは言葉を付け加える。
「男女関係も、深まったと見えるな」
 ――どういうことだ?
 そう思ったのもつかの間。俺は、知らないうちにセンスパと手を繋ぎ合っていたことに気付いた。いつのまに・・・・・、まったく無意識だった・・・・・
「え、あ、ちょ、ちょっと、いつのまに・・・・・」
 センスパも俺と同じ考えのようだ。きっと、どちらからというわけでもなく、お互いの手を握っていたのだろう。センスパは、慌てたように手を離した。
「まぁ、そう照れなさんなって」
 あいつはけらけらと笑いながらそう言う。センスパは、そんなあいつの言葉を完全に無視した。
 あいつが、こほんと咳払いをして
「さて、じゃあ夜も遅いから、各自テントに――」
と皆を促そうとした時、あの人が片手を広げて前に出して、
「ちょっとまった」
と言葉を遮った。
「いいかな、少しだけ。このシナリオについてなんだけど――」
「あれ?お兄ちゃんも気付いてたの?」
 次は、妹さんがあの人の言葉を遮る。あの人は、妹さんの方に向き直って言った。
「ああ、やっぱりお前も分かったのか。そうかとは、思ったんだけど」
 二人の会話は、俺にはちんぷんかんぷんである(死語だな・・・・・)。あの娘とセンスパも、それは同じと見えて首をかしげている。しかし、あいつだけは、口元をつり上げて苦笑いをする、という違う反応を取った。
 そんな俺達を気にせず、あの人と妹さんは会話を続ける。
「あーん、せっかく私だけだと思ったのに〜」
「それじゃあ、お前に説明する役目を譲ってもいいよ」
「ホント?ホントね?」
 妹さんは、あいつの真似をしたのか、咳払いを一つして全員の注目を集め、そして、何の前置きもあの人と交わしていた会話の説明もせずに、話を始めた。


「この肝試しのシナリオは、フィクションだと彼が説明しました」
「その通り」
 あいつは、さっきまでの苦笑いを消し、今度は本当に状況を笑っているような笑みを顔に浮かべながらそう反応する。
「A子さんが神隠しにあった、というストーリィでしたが、これはただの怪談話ではないように私には思えるのです。真相から話します。A子さんが、後から出発した男友達と出会わずにゴールしてしまった理由は、こうです」
 妹さんは、まるでドラマの名探偵のように指を一本立てて、続けた。
「A子さんは、行きと帰り、違う道を歩いていた。A子さんと男友達のどちらも本当のことを言っているとしたら、正答はそれだけになるんです」
 妹さんは、あいつの用意した簡易地図の裏にさらさらと何かを書くと、それを俺達に見せた。それは、簡易的に書かれた図だった(『図』参照)。
「この林道の道が入り組んでいることは、さっき彼が説明した通りです。こんな風に、ここを出発して林道を通り、あの原っぱに行く道は、少なくとも二種類あると考えられます。正規のルートをルートaとすると、他にもう一本、ルートbが存在しており、それはルートaと途中で交わっています。それも、至って自然に」
 俺は、あいつの表情を伺う。あいつはまだ、にやけ笑いを浮かべたままだ。
「私達が彼に指定されて今、歩いた道は、ルートaでした。気付いた人もいると思いますが、途中に獣道のように他の道へ行く分岐地点がありました。普通に見れば、とても目立ちにくい場所です。その獣道が、ルートbとの交流地点だったと考えられます」
 妹さんは、自分が描いた図を細い指でなぞりながら、説明を続ける。
「最初、A子さんはルートaを使って原っぱまで行きました。それは普通です。しかしA子さんは、原っぱで少し休憩をしました。そして再度、同じルートを通って帰ろうとしましたが、そこで、来た道と別の道――ここで言うとルートbですが――へと進んでしまったのです」
 俺は思い出す。確かに、原っぱから林道へと戻る道は、複数あった。俺は地図を持っていたし、原っぱに到着してからすぐに引き返したから元の道を通ることができたが、もし、原っぱで数分立ち止まってからだったらどうだっただろうか。俺も、間違えて別の道へと入ってしまっていたかもしれない。
「後は簡単ですね。A子さんがルートbを進んでいる時、男友達はルートaを進んでいるのですから、出会うはずがありません。A子さんは懐中電灯なしで、自分の眼だけが頼りでしたから、元の道と違う道だということは、気付かなかったのでしょう。林道は木がいっぱいで、ちょっとやそっとでは違いが分かりませんから」
「でも、交流ポイントは獣道みたいに細い、目立たない道だったんだよ?A子さんがルートbを通って、その後にルートaの道へ戻る時、分かるんじゃない?」
 センスパが妹さんに尋ねる(今気付いたが、センスパが敬語を使わないのは、妹さんに対してだけだ)。
「進む道が一本道なら、ただひたすらまっすぐ進むことしかできないでしょ?だから、それがいくら細い道であっても、A子さんの記憶は修正されて、こんなもんだったかもな、と思ってしまうの。ルートaの方から見たら細い道でも、ルートbから見れば、繋がっている唯一の道になるから。それに、A子さんは帰り、男友達と出会わないことに焦っていたしね」
 確かに、先が一本道だったら、何の疑いもなく俺はそれを進んでしまうだろう。もしも分かれ道があったら、道幅が広い方に行くのは、人間の心理だが、一本しか道がないところは、選択をする必要がないので思考をせずに進んでしまう。それも人間の心理である。
「彼の話には、いくつか伏線が張ってありました。例えば、A子さんは行きは整備されたを道を進んでいたけど、帰りは何度も石につまずいた、というもの。これは、行きと帰りで違う道を歩いていたことを示唆しています。あとは、帰り道が長く感じられた、というもの。実際確かめていないので分からないけど、きっとルートbの方が距離が長いのだと思います。後から出発した男友達が先にゴールしてしまったほどだから」
 妹さんは、最後ににっこりと微笑んで、言った。
「解答は以上です。どうですか?」
 その言葉を受けたあいつは、一度表情を固くした後、すぐにふっと微笑んだ。
「ははっ、正解正解。まさかここまで当てられるとはなぁ・・・・・、さすがあの人の妹・・・・・」
 そう言った後、あいつは補足する。
「さっき言っていた、ルートbの方が長い、というのは本当だ。俺が歩いて確かめた。ホントはさ、このゲームが終わってから俺が種明かしする予定だったんだ。みんなの驚く顔を見ようと思ったんだけど、失敗しちゃったなぁ・・・・・」
 あいつは、話を終えると軽く音を立てて拍手した。
「やったー、当たりなんですね?お兄ちゃん、今更『同じ考えだ』なんて言っても、聞かないからね〜」
 妹さんは、心の底から喜んでいるような動作で、喜びを表現した。あの人は、
「酷い奴だな・・・・・・、まぁ、それでもいいけどね」
と笑っている。
 俺は、あいつの創作力に感心していた。あいつが、一日でこれだけのシナリオを考えるとは思っていなかった。
 妹さんは、あいつの方に近寄っていって上目遣いで尋ねる。
「賞品はなんですか?お菓子?肩たたき券?えへへ、キスでもいいですよ〜」
 妹さんのキス、という言葉に、俺はドキっとするが平静を装う。下手に反応したら、かえって不自然である。
 自己を安定させるため、俺はセンスパに話しかけた。
「センスパ、この謎解き、気が付いてた?」
 すると、センスパは何処か哀愁を漂わせながら
「気付いてないです。そんなこと考える余裕もありませんでした・・・・・・、こういう肝試しとか、苦手なんです、私・・・・・」
と答えた。そう言ってうつむく姿も、俺の目には綺麗に写った。
 その後、少しだけ会話を交わしていたが、誰かが欠伸をしたのをきっかけにあいつが
「じゃ、今日のところは解散にしようか。みんな、眠いだろ?」
と言い、それが解散の合図となった。
 全員が自分のテントに戻る。そして、冷めない興奮を静めつつ、眠りについた――


 翌日。キャンプ最終日の早朝。
 テントというものは、所詮は一枚の布であるからして、外からの光を完全に防ぐことができない。
 俺は、外が明るくなってきたのを感じて、自然と目を覚ました。右手につけられた腕時計を見る。5時14分。少し、早く起きすぎたようだ。
 腕時計を見ただけで、俺は目を再び閉じるがなかなか二度寝ができない。こんなに朝早くから起きるのも不必要だったし、周りから物音が聞こえないため、あいつとあの人もまだ眠っていることを確認できる。
 俺は、左手を軽く動かす。――と、左手の小指が何かにぶつかった。
 俺は、目を閉じたまま左手に感覚を集中させてそれが何か探る。人肌であることは、すぐに分かった。
 俺は、左側に誰が寝ていたかを思い出す。たしか、あいつだったはずだ。
 ――あいつめ、離れてねていたのに転がってきたな・・・・・
 俺はそう思ってから目を徐々に開ける。すぐ隣に男が寝ているというのはあまり気持ちが良くもない。俺は、あいつの身体を押して自分が寝転がる範囲を確保するつもりだった。そう、そのつもりだったのだ。対象が、あいつだったら。
 目を開けてから、俺は左側に首を倒した。そして、絶句した。
 そこにいたのは、あいつでもあの人でもない。妹さんが安らかな寝顔で眠っていた。
「・・・・・・へ?」
 やっと声が出せるようになった俺は、とりあえず反対側を見る。そこには、あの人が眠っていた。それが、いたって普通の光景なのだ。
 落ち着いてから、俺は再び左側を見る。やはり、そこに寝ているのは妹さんだ。そしてその向こうに、あいつが寝ているのが見える。
 ――ここは男子用テントだ。それは間違いない。それなら、何故妹さんがここにいる?
 俺は自問するが、答えは出ない
 自分の左手の先にあるものを見る。
 さっきからあいつだと思って触っていた人肌は妹さんのもので、それもその右太股というかなり際どい身体部位であった。
 俺は自分が犯罪者にならないためにまず左手を引っ込めてから、精神を落ち着かせて、わざと音を立てて起きあがった。
「ん・・・・・、なんだよ・・・・・」
 あいつが目を覚ます。あの人が起きあがったのも、気配で分かった。そして、今、俺の目の前にいる妹さんも。
「・・・・・・え?」
 誰より先に、あいつが驚きの声をあげた。当然の反応であろう。
 妹さんが状況を理解できないようにきょろきょろしている時、あの人が冷静な声で尋ねた。
「・・・・・なんで、お前がここにいるんだ?」
 冷静ではあったが、驚きの感情を含んだような声だった。
「え、そ、そんな・・・・・、なに・・・・・?」
 妹さん自身、自分が何故ここにいるのか分かっていない様子である。
 一度、大きく深呼吸してから妹さんは自分の顎に人差し指をあてて記憶を呼び覚まそうとした。
「え・・・・・っと、昨日、お手洗いに起きて・・・・・、その後は・・・・・・」
 とても神妙な顔をする妹さん。
「私、その後にここに入っちゃったのかな・・・・・・?」
 ――つまり、妹さんは夜中にトイレに起きて、その後寝ぼけて女子用テントに戻らず、男子用テントに入り、そのまま眠ってしまった、と・・・・・・
 俺はかなり複雑な気持ちになる。女の子と一晩、同じテントで眠ってしまったのだ。きっと、この感情はあいつも同じはずである。
 至って冷静なあの人と、流石に笑顔を忘れうろたえている妹さんに俺は言う。
「と、とにかく、この事は内密にして、他の女子に見つかる前に早く向こうのテントに戻って――」
 俺は言葉をそこまでしか言うことができなかった。俺の言葉の途中で、テントの出入り口部分が開いた。外から朝日が差し込んでくる。
「何を内密にって?・・・・・もう、見つかってるけど」
 テントの外には、あの娘が怒り笑いのような表情をして立っていた。機嫌が良さそうだとは、とても言えない。
「こ・・・・・、これは、どういうことですか?説明・・・・・、してください・・・・・」
 その横にはセンスパも立っていた。こちらも、怒っていることは明白だ。
 それも、当たり前であろう。テントの中には男子三人に囲まれた妹さんが一人。いろいろな勘違いが生まれて当然だ。大体、俺だって何が起こったのかまだよく把握していない。
「これがキャンプの目的だったんじゃ、ないでしょうね?」
 あの娘が感情を押し殺したような妙に冷たい声で言った。昨日の肝試しより、怖かった。


 ――一応、状況説明は終わった。
 あの人が中心になって、真実のみを伝える。妹さんも俺達を弁護してくれた。
「ふぅん・・・・・、そう・・・・・」
というのは、あの娘の言葉である。センスパは、ひたすら無言だ。
 どうも険悪なムードに妹さんは
「すみません、私がドジで馬鹿なばっかりに・・・・・・、あの、その、すみません・・・・・」
とひたすら謝り続けている。妹さんを責めるつもりはさらさらない。それは、あいつも同じのようだ。
「気にすることないって」
と妹さんをフォローしているのが、あいつである。
「じゃあ、私はもう一眠りするわね。8時になったら起きるから」
 あの娘は冷たく言い放った後、さっさと自分達のテントに戻っていった。センスパも無言のままそれに続いた。妹さんも最後にお辞儀をして去っていく。
「・・・・・なんか、すげぇことになっちまったな」
 あいつが言った。まさに、その通りだと思う。眠気など吹っ飛んでしまった。


 朝食を終え、男子勢で相談した結果、俺がセンスパと、あいつがあの娘と二人きりでの自由行動を儲けてこの誤解を晴らそう、ということになった。あの人もその意見に同意した。
「それが一番いいね。妹の方は僕に任せてくれるかな」
 センスパと話をすることに苦労したが、なんとか一緒に散歩するという口実で二人きりになることができた、というのが今の状況である。あいつも今頃、あの娘と何処かを歩いていることだろう。
 川のせせらぎが聞こえる川沿いの道を俺とセンスパは歩いていた。
 俺はさっそく、本題に入る。
「さっきのことだけどさ、あの説明で信じて・・・・・、ないよね?」
 センスパは俺の隣をうつむきながら歩いていた。その口が、小さく開いた。
「信じます。・・・・・でも、なんだか納得できないんです」
 周りに誰もいない道。俺とセンスパのどちらも声を出さなければ、聞こえるのは川の水音だけである。したがって今、俺の耳には水音だけが入り込んできている。
 俺はちらりと横をみて、センスパの表情を伺う。うつむいていて分からなかったが、笑っているようには見えない。つまり、その真逆であった。
 センスパが目の涙が、ここまではっきりと確認できたのは初めてだった。
「ごめんなさい、素直じゃなくて・・・・・。自分でも嫌になります、こんな性格・・・・・、最悪です・・・・・」
 センスパは呟くように言った。その言葉は、周りの自然音に溶け込んでしまいそうなくらい淡かった。
 その後センスパは、言葉に詰まったかのように黙り込んでしまった。
「そんなことはない、センスパは十分魅力的だよ」
 俺は出来る限り優しい笑顔を作って、語りかけるようにそう言う。
「本当ですか?・・・・・信じられません」
 うつむいたまま、足をゆっくりと動かすセンスパの歩く速さに合わせるように、俺の足も鈍足化する。
 一陣の風が吹く。川の水は音をたてて波形を作り、周りの草木はこの状況をさらに演出してくるかのようにざわめいた。
「本当だよ」
 俺は言う。
「人の魅力や価値観って、思うより複雑なんだ。自分の考えが世の中全てに通じると言うわけじゃない」
「複雑なのが、逆に単純なんです。きっと」
 俺の言葉の後にセンスパはそう呟いてから、泣き笑いのように喉を鳴らすと
「ほら、私ってあまのじゃく・・・・・」
と言って、その場に立ち止まった。
 センスパの二、三歩先を歩いていた俺も立ち止まり。ゆっくりとセンスパに近づく。俺とセンスパの身体が並んだ。自分よりも身長が低いセンスパの表情を伺うことはできないが、良い表情をしているはずがなかった。
「そんなに自己嫌悪に陥る必要はないよ」
 励ましてばかりで芸がないのは自分でも承知している。しかし、些細なきっかけ(妹さんのことであるが)からここまで落ち込んでしまったセンスパを見るところ、妹さんの件はトリガーになったに過ぎないように思える。こちらの世界(物後の世界、というらしいが)に来てからセンスパの精神に積もっていたストレスや緊張などが今、弾けてしまったのではないか。
 そうであるならば、俺に今できることは一つだけ。センスパに、優しくしてあげることしかないのである。
「・・・・・・そんなに私が魅力的で、私自身が思っているようなものじゃない、っていうなら、証拠を見せてください。目で確認できる、証拠を」
 肩を震わせて泣いているセンスパは俺の方に顔をあげてそう言った。その大きな目には、既にこぼれ落ちることを待っている涙が沢山たまっていた。
「証拠って言ってもなぁ・・・・・」
 俺は独り言のように呟いた。俺がさっきからセンスパに対して言っていることは嘘偽りない、本心だった。しかし、それの証拠を見せろと言われてしまうと、嘘発見機でもないかぎり、出来ない。
 俺のすぐ横を流れている川のちゃぷちゃぷという音だけがこだまする。俺には何もできないというのだろうか。今の俺は、川の水よりも、木々の緑よりも無力だ。そう思った。
 センスパは、俺が何も言わないのを見越したかのように、ゆっくりと、しかしはっきりと言葉を放った。
「本当なら・・・・・、本当なら、キス、してくれますよね?」
 ――沈黙。
「それを、証拠にしてください」
 向かい合っていたセンスパの顔は、真剣そのものだった。
 俺は頭の中でセンスパの言葉の意味を考える。その後に、センスパの積極さに驚き、そして、決意する。それだけの思考をするのに30秒。自分の精神状態を確認。オールグリーン、完全正常。次に、センスパの表情を確認。正常。そして、実行――
 俺が何か言おうと口を開けた、その瞬間だった。
 センスパは自分の両手で俺の身体を強く押す。俺は耐えきれずに後ろへとひっくり返った。
 そのまま俺は、川へと落ちた。どぼん、という大きな音。
 浅い川なので何ら危険はなかった。川の中で尻餅をつく俺。びしょびしょだ。
 センスパを見上げると、センスパは立ったまま俺の方を見て、
「冗談です。真に受けちゃいましたか?・・・・・疑ったりなんて、しませんよ。私が貴方を疑ったりなんて・・・・・」
と言うと、笑った。やっと見ることができた笑顔だった。目にたまった涙も、その笑顔を強調するかのように、輝いていた。
 俺の顔からも笑顔がこぼれる。良かった、本当に――



 夕方になり、帰宅の時間である。
 あの後、川で水を掛け合って遊んだ俺とセンスパは予備の着替えも使うことになった。
 全員集合した時には、あいつとあの娘も以前のように仲睦まじい関係に戻っていた。あの娘が少し照れているような気がするのは、俺の気のせいなのかもしれない。
 帰りの電車であいつ、あの娘、あの人、妹さんの四人は俺が降りる駅より一つ前の駅で降りていった。
 電車に揺られる俺の横で、センスパがまぶたを閉じてぐっすり眠っている。その首がかくんと俺の肩に乗る。重さは自然と感じない。
 センスパの寝顔を俺は眺める。こうやって見ると、まさに一人の少女だ。まさか、住んでいる世界が違うなど、とても思えない――
 俺はそんなことを思いながら、センスパの頭を軽く撫でた。俺は眠るわけにはいかない。次の駅でセンスパを起こし、家へ連れて帰らなければならないから。それは、俺にかせられた使命。そしてその使命は、できれば永遠に続いて欲しい使命だ。



              (27話から32話まで掲載)


 遊園地に遊びに行ったのは楽しかったのだが、多少くたびれてしまった。
 俺はコンピュータの電源をつけ、キーボードに手を置いた。
 30分ほどブラウジングを続けていたが、突然本体の内部からブツン、という音が聞こえた。
「なんだ?」
 俺がそう言うと、横で自分のノートパソコンを使っていたセンスパも俺の方を向いた。
 マウスを動かしても言うことを聞かないし、キーボードを叩いても運とも寸とも言わない。一度強制終了をさせ再び電源ボタンを押すが、今度は電源がつかなくなってしまった。
「あれ、どうしたんだろう・・・・・故障かな・・・・・」
 本体を軽く叩いてみたりするが、結果は同じ。ハードディスクの中身は大丈夫だろうな、と不安がよぎる。
「壊れたんですか?」
「そうかもしれない・・・・・」
 配線をいじってみたりしたが、何も起こらない。俺は諦めて、次の日に連絡をするために、カスタマサービスの電話番号を調べてからセンスパに言った。
「直るまでセンスパのノートパソコン使わせてよ」
 しかし、そう言った後、センスパは
「駄目です。絶対に駄目」
と拒否。いかがわしいものでも入っているのかと思ったが、今、悪いセンスパの機嫌をますます悪化させることはない、と思い直して
「そうか、ならいいや」
と言った。


 風呂からあがり、翌日の授業の用意を揃えてから寝ようと思って、ポケットの中身を出した時、一枚の紙がはらりと落ちた。
「あれ、何か落ちましたよ――」
 センスパはそう言いながらそれを拾う。礼を言ってセンスパからそれを受け取ろうとしたが、そうするよりも前にセンスパの顔がみるみる赤くなっていった。
「な・・・・・、い、いったい何処で何をやってきたんですか!」
「へ?」
 俺はセンスパから落とした紙を受け取る。紙だと思っていたそれは、妹さんと一緒に撮ったプリクラだった。そこには引きつった笑顔で立っている俺と、俺に両手で抱きついている妹さんが写っている。
「え、いや、これはさ、いや、そういういかがわしい物じゃなくて・・・・・」
「そうですか。いかがわしくないんですか。じゃあ、何がどうなったらこういう状況になるのか説明してください」
 ・・・・・センスパはますます怒ってしまったようだ。きっと、こういう軽率なことは嫌いなのだろう。
「もう寝ますよ。おやすみなさい」
 そう言ったセンスパは、俺が布団に潜るのも待たず電気を消した。俺も渋々それに従い布団に入って
「おやすみ」
と目を閉じた。


 ――暑い。
 9月に入ったというのに熱帯夜に近い気温に感じる。夜中に目が覚めてしまった俺は、一階のダイニングで水を飲み、再び二階の自分の部屋に戻った。そして、唖然とした。
「・・・・・」
 目の前に広がっているこの光景は――こういうのは男のサガだろうから許してほしいのだが――天国かと思えた。
「う、うぅん・・・・・」
 暑さに寝苦しそうに身をよじらせているのは他でもない、センスパである。
 それだけなら構わない。布団を脇の方に寄せているのも、問題ではない。
 問題なのは、センスパが自分のパジャマのボタンに手をかけ、それを脱ごうとしている点である。
「あの、センスパ・・・・・?」
 一応呼びかけているが、寝ているようだ。
 パジャマの前はすっかりはだけており、センスパは次なるズボンにまで手をかけているところだった。
 流石にこれはまずい。俺はそう思ったが、どうするわけにもいかない。まさか、俺がボタンをつけなおしてあげるわけにもいかないのだ。
「ほら、風邪ひいちゃうぞ」
と言って、脇にあった布団を掛けてあげたが、30秒もしないうちにセンスパはそれを払いのけた。
 そして、寝言なのであろう、口を小さく開くと
「私も・・・・・好・・・・・き・・・・・」
と呟いた。
 その言葉に俺は心臓を一度、大きく脈打たせた。
 そして、何にも意気消沈して、その場を写真撮影しておきたい気持ちをぐっと抑え、センスパをそのままにして少し離れた場所に敷いてある布団に入った。


 俺の目覚まし時計がなる30分前のことだった。
「ひ、ひゃー!」
という悲鳴によって、俺は目覚まし時計よりも爽快な目覚めを得ることができた。
 悲鳴の主は、もちろんセンスパでしかない。どうやら朝まで半裸状態で寝ていたらしいセンスパは、目覚めて状況に気付き、そして悲鳴をあげた、という具合だ。
「ひ、あ・・・・・、ひ、な、なんですか!いったい!」
 半分寝ぼけている俺の胸ぐらを軽くつかんで、センスパはがくがくと身体を揺すった。
「いや、まずパジャマを着ようよ」
と俺は言う。センスパは顔を真っ赤にして後ろを向き、そしてパジャマのボタンを一番上までしっかり閉めると俺の方に振り返った。
 俺はそれを見計らって
「だからね――」
と、昨日の夜、俺が見た状況をありのままに説明した。こういう時は、嘘を言わないのが一番だ。自分が悪いことをしていないのであれば、嘘をつくのは無意味であるし非常に危険である。
 俺が一通り話し終えると、センスパは赤かった顔をますます赤くして
「そ、そんなはしたないことを・・・・・、す、すみません・・・・・・」
と呟くように言った。そんな姿を、俺は愛らしく思う。
 ふと俺は、昨日言っていた例の寝言が気になり、
「昨日、どんな夢を見てたか覚えてる?」
と訊いてみた。
 センスパは一瞬考え込み、そしてはっとした顔をした後に
「何も覚えてません」
と言った。冷静な口調だが、その表情は動揺を隠せなかったようだ。どうやら、嫌らしい夢を見ていたことは確からしい。
 と、目覚まし時計が音をたてて鳴った。俺はセンスパが着替えると言ったため、部屋の外に出て、歯を磨くために一階へと下りた。


「昨日は妹に付き合ってくれてありがとう」
 学校に着くなり、あの人が話しかけてきた。俺は、
「あ、ああ、うん」
と曖昧な返事をする。些細なこと――ではないが、まぁ、とりとめもないことが心に引っかかっていたからである。
 すると、あの人はその核心をつく質問をしてきた。
「で、昨日、妹に何かした?」
 ・・・・・まったく、恐ろしい人だ。
「え?」
「いやね、何処にいって何をしたのか、いつもみたいに自分から話してこなかったからね、あいつ」
 あいつ、というのは妹さんと解釈して良いだろう。
 俺は返事に困る。観覧車でキスしました、なんて、とても言えない。
 すると、あの人はふっと笑って
「ま、別に何があってもいいんだけどね」
と言った。その目は、まったく笑っていなかった。


 授業中も妹さんのこと、あの人のこと、センスパのこと――いろいろなことが心の中で混ざり合って、俺は何故だかぼーっとしていた。
 ノートを取ることもままならなかった俺は、何度か注意を受けた。もっとも、俺の前の席に座っている輩がしょっちゅう居眠りをしているせいで、俺への被害は軽減されたのだが(こいつには後で礼を言う必要があるくらいだ)。
 いつものようにホームルームも居眠りをしているそいつの背中を眺めつつ帰りの挨拶を終え(この帰りの挨拶というのは小学校から唯一受け継がれている伝統である)、俺はさっさと鞄を持ち、足早に教室を出ようとした。
 その時、後ろから俺に声をかける人物がいた。
「ちょっと、今日は係りの仕事で残れって言ったじゃない」
 クラスのまとめ役である、女史がそこにいた。


 女史は俺の方に近づいてきて、眼鏡の位置をくいっと直した。あの人がする同じ仕草を見る時も思うが、とても様になっている。俺がやっても変になるだけだろう。
 さて、女史が言った言葉を、俺は聞いていなかったようだ。
「あれ、そうだっけ。ごめん」
と素直に謝った俺は、鞄を自分の席に戻した。他のクラスメイト達は各自の活動のために教室を去っていく。すぐに、教室には俺と女史の二人だけになってしまった。
 女史は、係りの仕事をする、と言った(思えば、この係りの仕事というのも小学校から引き継ぎのシステムである)。
 女史は大きな模造紙を運んできた。その後に、俺にA4用紙を渡す。
「これの通りの掲示物を作るから。手伝ってもらうわ」
 そう言いながら女史は模造紙を広げる。
「なんだ俺だけ残したの?」
 俺は、疑問に思ったことをそのまま口に出してみた。女史はマジックや鉛筆などの準備に忙しく、俺の方を振り返りもせずに答える。
「他に残ってくれそうな男子がいなかったからよ。それに、二人だけでも十分だと思ったし」
 別に、男子を残す必要があったとは思えないが、ここは突っ込んでは行けないのだと思う。
 俺はA4プリントを眺める。近々行われる学校行事の宣伝文句が歌われているものであった。どうにも作る必要性を感じないが、これも突っ込んではいけないと思う。
「さて、と。下絵はもう完成しているから、あとはポスターカラーでなぞるだけよ。特に大変な作業はないと思うから、手伝ってね」
 俺は頷いて、ポスターカラーを手に持った。美術の評価はあまり良くない俺だが、人並みの作業は行えるはずだ。これで役に立てるのであれば、喜んで参加しようと思う。
 誰もいない教室で、ぽつりぽつりと雑談を交わしながらの作業が始まった。


 作業開始から一時間。ほとんど形が浮かび上がってきた模造紙は、運ばれてきた時のモノクロのものより大分迫力を増したように思えた。
「こんなもんでいいかしら」
 女史が眼鏡の位置を、自分の中指を使って直しながら言う。
「そうだね」
 俺はそう言った後、続けて尋ねる。
「これを何処に掲示するの?それも手伝った方がいいよね?」
 女史は模造紙を両手で持ち上げ、満足したような顔を浮かべた。
「そうね、南校舎二階の廊下にでも貼ろうかしら。あそこは人通りも多いし。手伝ってくれるんなら、手伝って」
 女史の言葉に、俺は頷く。そして、二人で南校舎二階の廊下へと向かった。


 誰もいない廊下に、俺と女史だけがいる。
「ここでいいわね。ほら、椅子と画鋲」
「はいはい・・・・・」
 女史は、俺が運んできた(力仕事のために俺は残されたようだ)椅子に乗って廊下の高いところにある掲示板へと模造紙を持ち上げ、そして画鋲を使って四隅を固定し始めた。
 と、その時――
「きゃ」
という小さな悲鳴をあげて、女史はバランスを崩した。
 椅子という不安定な台の上に乗っていた女史は背中から倒れ込む。このままでは、怪我は免れない。
 そう思った俺は、すぐに後ろに回り込んで、女史の身体を支えた。俺にできるのは、それだけだった。それだけだったから、そうしただけである。飽くまでここで断っておこう。
「あ・・・・・、っと、ごめん・・・・・」
 女史は転びそうな体勢で俺の腕の中にすっぽりと収まった。その眼鏡が、からん、と涼しげな音をたてて床に落ちた。
 ――あれ
 俺は思う。
 眼鏡をつけている状態では真面目なイメージが強かった女史だが、こうしてみると目が大きくて、そうだ、これは男性的本能でそう思ったのだろうが、可愛い。
 ――と、向こうの方から足音がした。
 その足音に反応して、体勢を立て直そうとしたが、時既に遅し、というのはこの状況を言うのであろう。
 向こうからやってきたのは、間の悪いことにあの人であった。
 あの人は、そのポーカーフェイスには珍しい驚いた表情を見せ、その後に
「これはごめん・・・・・」
と言ってその場を立ち去った。俺は、止めようとしたが、あの人はさっさと何処かに行ってしまった。
「えっと・・・・・、あの人には俺が説明しておくよ」
 俺は女史にそう説明した。女史の方も、いつものポーカーフェイスを崩して少し顔を赤らめながら、無言のままに頷いた。


 女史との仕事を終え、家に帰った俺は速急に携帯を取りだして、あの人宛にメールを送る。
『さっきのことだけどさ、女史と俺は何でもないし、あれは事故だから勘違いしないで』
 あの人も、家に帰っていたと見受けられる。メールがすぐに返ってきたからだ。
『へぇ、そう。言い訳に見えないこともないけど、信じるよ』
 物凄く曖昧で、且つ信用しているように見えないその文面を見て俺は苦笑する。と、センスパが部屋に入ってきた。
「メールですか?」
「男友達とね」
 俺は携帯を折り畳んで机の上に乗せ、ベッドに寝転がった。
「昨日ですけど、あの、家に着た女の子と何処へ行ったんですか?」
 センスパが、俺の寝転がっているベッドに腰を下ろしながら言った。そっぽを向いているのでその表情は伺えないが、意図的に目線を逸らしながら近づいてきたところを見れば、表情など見ずともその感情は伺い知れる。
「遊園地だよ、近くの」
俺は答えた。
「遊園地・・・・・・」
「今度、センスパも連れて行ってあげるよ」
 俺が言うと、センスパは身体の動きを一瞬だけ止めた。
「い、いえ、そんなつもりで言ったんじゃ・・・・・ないん・・・・・ですが・・・・・」
曖昧な語尾を持たせた言葉を言ってから、センスパは、ゆっくりと振り返る。
「やっぱり・・・・・、遊園地行きたいです」
 なんとも微笑ましい行動である。俺は笑いながら
「OK」
と言った。
 ――言った瞬間、机の上で携帯が震動した。
 手に取ってみると、差出人は今、話題に出ようとしていた妹さんであった。
『兄から聞きましたよ、ガッコで女の子からモテモテなんですね〜』
 ・・・・・・いったいあの人は何を言ったのだろうか。
 あの人も口が軽い、と思いつつ、俺は親指でプッシュホンを押す。
『あれはそんなんじゃなく、事故でああなったんだって。兄さんにもそう言っておいてよ』
 妹さんも携帯を手に持っているようで、返信が早い。
『あれってなんですか?私はただ兄から、あなたがガッコでモテるから諦めろ、って教えて貰っただけですよ〜』
 しまった、と心の中で呟く俺。自ら墓穴を掘ってしまったようだ。
『聞いてないんならいいんだ。俺の早とちりだったみたい』
 送信。かなり苦しい言い訳だと思うが、仕方がない。他に良い言い回しが思いつかなかったのだから。
 横からのぞき込んでいるセンスパを上手い具合にかわしつつ、俺は再び手の中の携帯が震動したのを確認して着信メールを開く。
『ねぇねぇ、あれってなんですか?聞きたい聞きたい、あやしいですよ〜』
『いや、大したことじゃないよ。忘れて』
 自ら掘った墓穴でここまで苦しむとは思っていなかった。一応、一応ではあるが、俺と妹さんはキスをしたわけだ。そこで、俺と学校の女子が抱き合っていた(ように見えただろう)なんてことを知られるのはマズイということが、俺のような鈍感人間にも分かる。
 メールが返ってきた。
『いいですよ〜、兄に聞いちゃいますから。あ、その前にお風呂に入ります。おやすみなさい〜』
 それが、その日に来た最後のメールだった。


 翌日、眠い目をこすりつつ俺は登校する。下駄箱に靴を入れていると、後ろから声を掛けられた。
「おはよう」
 振り返ると、女史の姿がそこにあった。俺はすぐさま、
「昨日のことだけど、あの人の誤解は解けた・・・・、と思うよ」
と言う。女史は
「そう」
とだけ答えて、黙り込んでしまった。話しかけてきた理由は、それではないようだ。
「ねぇ、相談なんだけど――」
 女史は、開かない口をやっと開いた。そして続けた。
「――生徒会に、入ってみる気はない?」
 眼鏡の奥の目が、まっすぐ俺を見つめていた。


 俺がただ唖然と立ちつくしていると、女史は付け加えるように話し始めた。
「――っていうのも、生徒会役員だった先輩から一人欠員が出ちゃったところなの。一年生って私しかいないから、新役員は一年生の男子から選ぶことになったて、だからこそあなたを誘っているんだけど・・・・・」
 話を黙って聞いていた俺だが、上靴を履いて女史と並んで教室に向かいながら
「でも、俺なんかにそんな役割がつとまるのかどうか・・・・・」
と尋ねる。生徒会に誘われて嫌な気はまったくしなかった。しかし、中学とは違う生徒会に入るということが、なんとなく不安だったのだ。
 俺のその言葉に、女史は
「それは私が保証するわ。あなたには、そういう素質がある」
と軽い笑みを浮かべながら言った。
 その笑顔を見て、俺は昨日の出来事を思い出す。女史の素顔、可愛かったな・・・・・・
 俺は、少しだけ考えて、そして軽く一回、頷いてから言った。
「うん、まぁ、そういうことならやってもいいよ。でも、一年生の間だけ、でいいかな。二年生になったら、やる気がなくなるかもしれない」
 女史は俺に向かって、いつものクールな表情を見せ、そして一言だけ
「ありがとう」
と応じ、そして笑った。


 教室について席に座り、いつもとなんら変わりもせず友達と話をしていると、向こうにいたあの人が、ちょいちょいと指を動かした。こっちへこい、というジェスチャーらしい。
 俺が近づくと、あの人は廊下に出た。俺もそれに習う。
 あの人は、何の前置きもせずに話し始めた。
「妹が君のことを気に入っちゃったみたいだ。どうする?君のありのままを、伝えるべき?」
 ありのままを、と言われても、俺には卑しい事実はあまりないが・・・・・
 俺が複雑な表情をしているのを確認したのか、あの人はふっと笑ってから
「妹が誰かを好きになるのは、多分、僕の知っている限りでは初めてだよ」
と言った。
 そういうことならば、確かにあの人と妹さんは共通点があるのかもしれない。しかし、少なくとも妹さんは、今、俺のことが好きらしい。
 ――初めての恋で、相手をデートに誘ったりキスをせがんだりできるものなのだろうか。
 俺はそう考えてから、顔に苦笑を浮かべる。初恋は実らない、という言葉もあるわけだし、これが妹さんにとっての初恋なのだとは思えないのであるが・・・・・
「まぁ、初めてっていうことで、あれはあれなりに四苦八苦しているみたいだから、君に見守っていてほしいね。兄としては、だけどね」
 あれ、というのは妹さんのことを指しているのだろう。見守っていてほしい、と言われても困るし、だいたい、妹さんと俺はもうキスを済ませてしまっている。何がどうなってキスした、とか、そういうのは問題ではなく、事実としてそうあるだけであるが。
「ところで、だけどね――」
 考え込んでいた俺は、あの人の言葉で我に返る。あの人は俺が話を聞いていることを確認してから、続けた。
「妹に訊くように頼まれたんだけど、今、君に好きな人っているの?」
 好きな・・・・・、人・・・・・?
 俺は、あの人の問いを理解するのに、数秒かかった。
 そして、理解してから解答を探し始めるまでの思考回転が、非常に鈍足になった。
 思考が始まった瞬間、俺の脳内に複数の顔が浮かんだ。
 ――アメリカの彼女、他校のあの娘、妹さん、女史、そして、センスパとハピマテ
 今、俺にとって、好きな人とは誰なのだろう?
 質問を自分で何度も、何度も反復する。反復するのだが、答えは出てこなかった。俺が、今、好きな人とは、誰なのだろう?
「ごめん・・・・・」
 俺は、あの人にそう告げる。
「俺自身、よく分からない・・・・・・、ごめん、妹さんにそう伝えて・・・・・」



 その日の学校をなんとか終え、俺は自転車に跨った。
「さて、と・・・・・」
 意味のないつぶやきをしてから、俺は家の方向に自転車を走らせて、すぐにその走行を止めた。
 なんとなく、なんとなくであるが、家に帰るのに気が乗らない。
 俺は駅前へと続く道へ向かって自転車をこいだ。以前、センスパと一緒に不良に襲われたことを思い出し、人目の多いところを通りようにして。


 CDショップのCDコーナーをぶらつきながら、俺はJ-Popの試聴をくり返した。店内に流れている有線放送を含め、まったく気に入る曲がない。そのあたりの音楽に対する毒舌ぶりは、数年前の俺と少しも変わっていない。
 何も借りる気がないレンタルコーナーを冷やかしながら、俺は家に帰るタイミングを伺っていた。そのタイミングとは、もちろん俺の心境でのタイミングである。
 こういう場合、タイミングはなかなかやってこないものである。ただぶらつく俺は、店員にさえ怪訝そうな目で見られている、そんな気さえしてきた。
 ――と、その時だった。
「あれ?もしかして――
と、後ろから名前を呼ばれて俺は振り返った。
 そこには、見慣れた女の子が立っていた。
「こんなところで会うなんて。奇遇じゃない」
 あの娘だった。


「何してたの?」
 偶然会った俺とあの娘は、お互いに暇であったため駅前の他の店をぶらつくことにした。
「特に何するわけでもなく、暇つぶしかな・・・・・・」
「そっか、じゃあ、私と同じね」
 あの娘はそう言ってからくすりと笑う。
 考えてみると、あの娘と二人きりで会うのはかなり久しぶりである。久しぶりである上に、滅多にない稀な機会でもあった。
「あいつとはどう?上手くやってる?」
 俺はあの娘に尋ねることによって話題を作る。あの娘は、
「うん。それが彼、また変なこと考えてるみたいで・・・・・、あなたにもそのうち伝わると思うから今は言わないけどね」
 あの娘は苦笑する。また、か。たしかに中学時代はあいつの思いつき、散々振り回されたっけ。バンドを組もうと言い出したのも、かなり突飛な発言だった。しかし、その思いつきに振り回されることが、最大の思い出作りにも繋がったし、自分としてはだが、とても楽しいことでもあったのだが。
「うん?髪の毛にゴミついてるわよ・・・・・・」
 あの娘は俺の顔の方に手を伸ばす。その手が俺の髪に触れるまえに俺は
「ああ、うん、ありがとう」
とお礼を言う。あの娘の手が俺の髪の毛に触れた。上目遣いになっているあの娘の顔が、大分近くにある。俺が好きだったあの娘が、そこにいた。
 ――その時である。
「あ、あのう・・・・・」
 後ろから声がして、俺は振り返る。あの娘も俺の肩越しに、その後ろにいた人物を見た。
 聞き覚えのある声だと思ったが、やはり、俺の知っている人物だった。しかも、この状況で会うにはマズイ人物。
 妹さんが、きょとんとした顔で、しかし状況をしっかり把握しているような目で俺の方を見ていた。
「わ、わぁ・・・・・・、ごめんなさい、私、間が悪い登場でしたね〜」
 妹さんはにこっと笑ってそう言った。俺は弁解をしようとする。だいたいあの娘は今、あいつと付き合っているわけだから、弁解というのもどうかと思うのだが。
 しかし、妹さんは自分で状況を理解(正確な理解ではないと思われる)したようで、
「それじゃあ、また〜」
と言って早々にその場を立ち去った。俺に止める間も与えなかった。
「今の子、知り合い?」
 妹さんが見えなくなってから、あの娘が俺に訊いた。俺は、
「聞くときっと驚くと思うよ」
と前置きしてから、あの娘に伝える。
「あの人の妹さんなんだ、今の子」
「えぇっ!?」
 あの娘は、俺の予想通りの反応をする。やはり、あの人がどういう人か知っていると、そういう反応をするんだろうな・・・・・
「そ、そうなんだ・・・・・」
 あの娘はそう呟きながら、妹さんが走り去っていった方を見つめていた。



 俺は辺りが暗くなってからやっと家に帰ってきた。俺が部屋のドアを開けた瞬間、ポケットの中の携帯が震えた。メールである。
 差出人は、あいつ。
 俺はすぐにそのメールを開いてみる。そこには一文だけ、用件だけが書かれていた。
『突然だけど、みんなでキャンプ行こうぜ』





                  (21話から26話まで掲載)


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 ――ここは、何処だろう。
 うっすら目を開けた俺は、一番はじめにそう思った。
 目を開けると、一番最初に見えたのは天井。しかも、見慣れた部屋の天井ではない。コンクリートのタイルが貼り付けられている。これは、何処に天井だ?
 少し横に目をやると、そこには見慣れた女の子。
「ん、センスパ・・・・・?」
 俺は、出るようになった声をだして、センスパの名前を呼んだ。
 それに気が付いたセンスパはぼーっとした瞳をすぐに俺の方に向け、そして滅多に見せない笑顔を見せてくれた。
「だ、大丈夫ですか?良かった・・・・・」
 センスパはそう言った。
「ここは、何処?」
 さっきからの疑問を俺はセンスパに投げかける。
「病院よ」
 俺の問いに答えたのは、センスパではなかった。
「母さん・・・・・」
 センスパの隣には、母親がいた。病院?何故、俺は病院に・・・・・?
「不良に追いかけられて、それで物置に隠れたら貴方がいきなり倒れたんです」
 視界が良好になってきた。センスパの目には、うっすら涙がたまっている、ように見える。
「それで、私が通りかかったタクシーに乗って、貴方を一番近かったこの診療所まで連れてきたんです。あの、すみません、財布からお金を少し使いました。クレカが使えなかったので・・・・・」
 センスパはそう言って、頭を下げた。
「それはいいけどさ・・・・・」
 俺は言う。
「俺、何かの病気なの?」
「その質問には私が答えよう」
 今度は白衣を着たお爺さんが出てきた。多分、医者だろう。
「君は暗所恐怖症と閉所恐怖症を持っていると見られる。おそらく、生まれつきのものだろう。病気ではなく、そう、高所恐怖症と類の同じものだと思ってくれば良い」
 精神病、ということだろうか・・・・・?
「君はまっ暗な空間や、周りを密閉された空間、そんな場所で精神状態が狂う。例えば、潜水艦の中のような場所だね」
 そういえば、以前に遊園地に行った時、そんな経験をしたような記憶がある。俺は、観覧車なんかのアトラクションに乗ると、後から考えて自分で信じられないような行動に出ることがあった。
 あれは、その場の雰囲気に流されていたわけではなく、科学的な理由あってのことだったのかもしれない。
「今回、意識を失ったのはたまたま酷い症状の現れ方をしたからだ。今までに、こんな酷い状況に陥ったことは、多分なかったと思う」
「と、いうか、自分がそんな症状の持ち主だということも知りませんでした」
 俺の言葉に、医者は大きく頷く。
「しかし、一度酷い賞状が出ると、今後、少しのことで再発の可能性があるんだ。だから極端に暗い場所や、密閉された場所は極力避けること」
 そして、微笑むと医者は
「ま、死にゃあしないから大丈夫だろう。診察終わり」
と言った。


 礼を言って、俺は診療所を出た。
 母親は、仕事の途中だから、だとかでその場で別れた。
「あの、すみませんでした、私のせいで・・・・・」
 センスパが言ったので、俺は
「気にしなくていいんだよ、俺も分からないでいたことだし。もう大丈夫だから」
とほほえみかけた。
 そうは言ったものの、どうも、足がふらつく・・・・・
「あっ」
 ふらついたせいで、俺は自分で自分のほどけた靴ひもにつまづいてしまった。
「え、あ・・・・・」
 転んだせいで、俺は前に歩いていたセンスパの方に手を伸ばしてしまって・・・・・
「ちょ、ど、何処に触ってるんですか!」
「ご、ごめん、わざとじゃないんだ、ちょっとつまづいちゃって・・・・・」
 何故か、立場が逆になってしまった。
「セクハラですか?そういうことやる人だったなんて、思ってませんでした」
「だから誤解だって・・・・・」
 冷や汗を流す俺と、口調は怒っているが感じは悪くないセンスパの二つの影が、道に浮かぶ。
「そういえば、俺の自転車は?」
「あ・・・・・」


 おきっぱなしだった自転車を取りに行っくという重労働をしてしまったため、疲れてしまった俺は家に帰ってからすぐにベッドに倒れ込んだ。
 さっきまで気を失って眠っていたのに、何故か眠い。
 ふと気が付いて、俺はポケットの中身を探る。
 財布、定期券入れ、携帯電話。
 携帯電話を見てみると、新着メッセージ1件の文字。
「メールがきてるな・・・・・」
 俺は、そう呟いてメールを確認する。
 センスパが横に寄ってくる。いつもの光景だ。人のメールを横から見るのはあまり関心ではないが、俺は特に嫌な気はしないため黙認している。
 メールは、あの人からだった。
『明日の放課後だけど、暇?』
 それだけの短い内容。俺は、
『返信遅れてごめん。用事は特にないけど』
とメールを返した。
 すると次は、訳の分からないメールが送られてきた。
『それなら、星空観察に興味はある?』
 ・・・・・まったく訳が分からない。
 明日の放課後が暇なことと、星空観察に興味があることに何の関連性も見いだせない。センスパも首をひねっているようだ。
 続けて、俺の携帯はあの人からのメールを受信する。
『と、いうのも、明日天文台で天体観測会があって、とある事情で行かなければならなくなったんだ。一緒に行く気はある?』
 一緒に行く気はなかったが、用事もないため、俺は少し考えてからOKの返事をした。
『それなら、明日の放課後、学校から直接天文台に。よろしく』
 それで、あの人からのメールは途絶えた。
「うん、そういうことになったから、明日は帰りが大分遅くなるよ」
「わかりました」
 センスパに言った後、俺は母親に同じ内容を告げる。母親は二つ返事で承諾。俺は、その後にすぐ眠りについた。天体観測会なんて、聞いただけで眠くなりそうだ。


 翌日。
 学校での体育の授業を昨日の
「影響はないはずだけど、一応、明日は運動控えるように」
という医者の言いつけを忠実に守って見学した俺に、あの人は
「どうかした?」
と話しかけてきた。
 俺は、自分の持病のこと、昨日の出来事を、あの人にありのまま伝えた。
「そうなんだ、大変だったね。・・・・・天文台なんかに行っても大丈夫なのかな?」
 あの人の次なる問いに、俺は少し迷ってから、
「考えてなかったけど・・・・・、多分、大丈夫だと思う」
と答える。
 あの人は満足したような顔で、その場を去っていった。


「さてと、行こうか」
 放課後になり、俺とあの人は自転車を滑らせる。
 いつも帰る方向と違うだめ少しとまどう事もあったが、運転に影響が出るほどではない。それに、俺はそれほど方向音痴なわけでもない。
 あの人と二人で何処かに行くなんて珍しい。きっと、クラスの女子が聞いたら羨ましがるに違いない。そして、メールアドレス教えてよ、なんて言ってくるのだろう。・・・・・・それも悪い気はしないな、あの人と一緒に出かけた事実を言いふらしてみるか。
 そんな下らないことを考えている俺は、あの人に尋ねる。
「で、天文台に行かなければいけない事情って何?」
「いや、ちょっと知り合いがね・・・・・星とか、そういうロマンが好きな奴がいて、どうしてもっていうから・・・・・」
 成る程、俺とあの人の二人きりではなかったわけか。周りに言いふらす際はそこは若干の修正を要するな・・・・・
「ほら、着いたよ」
 小学校のころに来たっきりの懐かしい建物が、そこにはあった。
「ここで待ち合わせなんだけど・・・・・」
 あの人が腕時計を見たのと同時に、一人の人影が現れた。
 俺は、その人物を見て、目を疑った。
「こんにちは・・・・・じゃなくて、こんばんは〜。初めましてでもありますね」
 そこに現れた人物は、先日、俺が目撃した、あの人の恋人である女の子だった。


「えっと・・・・・、君は・・・・・」
「さぁ、いきましょう〜」
 俺は女の子に話しかけるが、軽く無視されてしまった。
 にこにこと終始笑っているこの女の子を見ると、何となくハピマテを思い出す。
「ほら、いつまで固まってるんだい?」
 あの人にそう言われ、俺は我にかえると
「ごめんごめん」
と言って、あの人と女の子に走って着いていく。
 そして、あの人にだけ聞こえるくらいの超えの大きさで
「じゃあ、ロマンが好きなのって、この子だったんだ」
と囁いた。
「うん、そう」
 あの人はそれだけ言って、あとは無言のままだ。俺と目線を合わせようともしない。
 と、いうか、あの人とこの女の子は俺の読みでは、であるが、付き合っているはずだ。それなのに、俺がこの場にいてもいいのだろうか。これは、あの人と女の子の、ロマンチックなデートなんじゃないのか?
 ・・・・・とも思ったが、見たところ、そんなことを気にするような女の子ではなさそうだ。そう思うことで、俺は安心することにした。
 歩いているうちに、観察会会場の天文台のすぐそばにある丘にたどり着いた。
「しまった、下にしくレジャーシート忘れちゃった、うっかりしてた!」
 女の子がその身体のわりに大きなリュックをごそごそしながら言う。あの中に、いったい何が入っているのだろうか。何故だか気になる。
「大丈夫」
 あの人は、そう言って自分の鞄の蓋を開けた。
「そうだと思って、僕が持ってきたよ」
 すると、女の子は
「さーすがー」
と言うと、目にも止まらぬ速さであの人に、抱きついた。
「え・・・・・」
 つい変な声を出してしまった。
 固まってしまっている俺とは正反対に、あの人は慣れたものだ。
「こらこら、人前でそういうことはしないこと」
と言って、女の子を引き剥がすと、その頭に手をぽん、と乗せた。
 そんなラヴラヴ具合を見せられている俺は、非常に目線に困るのだが・・・・・
「ほら、困ってるじゃないか」
 あの人が助け船を出してくれた。女の子が俺の方を見る。俺は、とりあえず笑う(多分、引きつった笑みになっていただろう)。
 女の子の方も、それにつられたように、えへへ、と笑うと
「ごめんなさぁい」
と言った。そんな、謝られるとますます困る。
「さて、と」
 あの人は、レジャーシートを敷くと、周りの人がそうしているように、その上に寝転がった。俺と女の子も、それに習う。
 天文台の職員と思われる人が、毛布を配りに来た。流石に、夜ともなると若干寒い。
 俺は、その毛布を受け取ると、あの人と女の子に渡す。
 毛布は大きなものを一枚しか配布されなかった。そのため、俺、あの人、そして女の子は、一つの毛布を三人で被っていることになる。これは、いかがなものなのだろうか・・・・・
 そんなことを考えながら、俺は空を見上げた。
「綺麗ですね」
 女の子が話しかけてくる。
「うん、そうだね」
 俺はそう答えながらも、実際、注目しているのは星ではなく、女の子とあの人の関係だった。


 その後、星を見ながら少し話をした。
 驚いたのは、女の子があの人を名前+君付けで読んだことである。
 クラスメイトの女子が、いや、男子であろうとも、あの人を直接、プライベートな事で本名を使うことを、俺は見た事がない。
 これはやはり、かなりアレな関係なのだろうか・・・・・
 あの人は頭が良いし、イケメンだし、他人から一目置かれる存在だ。それが良いとか悪いとかは、俺が言うことじゃないと思う。
 ともかく、そう言った意味もこめて、俺の周りの人は、彼のことを『あの人』と呼んでいるわけである。しかし、この女の子は寝転がりながらあの人にぺたぺたくっついて話をしている。
「ねぇ、お手洗いに行きたいから着いてきてよ」
 女の子が、あの人に言った。
 あの人は視線を夜空から逸らさずに、
「嫌だよ、一人でいけばいいのに」
と返事をする。
「怖いから一緒に来てっていってるのに〜」
 女の子は食い下がる。怖いのも無理ない。星をよく観察するために、周りの街灯は全て消えている。一番近くにあるトイレまでは、真っ暗闇の中を歩いていかなければならない。
「とにかく、僕は嫌だ」
 きっぱりと断ったあの人の方を見つめながら、女の子は頬を膨らませると
「意地悪〜」
と言う。
「なんなら、俺が着いていってあげようか」
 話しかけづらい雰囲気ではあったが、俺は女の子にそう言う。
「うん、それがいい、そうすればいい」
 あの人も女の子をそう促す。
 女の子の方も、にっこりと微笑むと
「ありがとうございます〜」
と言って立ち上がった。


 トイレの近くの街灯も、全て消されている状況だった。
 月明かりのみが辺りを照らす。ほとんど、暗闇に近い。鈴虫の鳴く声が響いている。
 あまりじっとして待っているのも、エチケットとしてどうかと思った俺は、その場を短く往復しながら女の子がトイレから出てくるのを待っていた。
 と、そこで俺は昨日の医者の言葉を思い出す。
「一度酷い賞状が出ると、今後、少しのことで再発の可能性があるんだ」――
俺は一度、首を軽く振った。
――意識しちゃ駄目だ。今まではこのくらいの暗さなら、なんともなかった。それに、ここは密閉されている空間じゃない。大丈夫・・・・・
 自分にそう言い聞かせるものの、俺の鼓動は急速に早くなっていく。
 深呼吸をするが、その動きは収まることをしらない。ただ立っているだけで、自分の鼓動が聞こえるほどになってきた。
「お待たせしました〜」
 女の子が戻ってきた。その瞬間、俺の心臓はひときわ大きく脈打った。
 理性が、失われていくのが分かった。
 それが分かっても、俺自身にはどうすることもできない。俺は意識せずに女の子のことをじっと見つめていた。
 ――駄目だ・・・・・
 自分に言い聞かせるが、感情が収まらない。精神的不安定状態。自覚できるが、止められない。周りの木が、ぐにゃりと曲がる。
 俺は、女の子の方に手を伸ばした――
「大丈夫?」
と背後から声がして、俺ははっと我に返り、手を引っ込めた。
 振り返るとあの人が腰に手を当てて立っている。
「帰りが遅いし、さっき聞いた君の体質の話を思い出してね。」
 あの人は言う。
「昨日の今日だから、少しの暗闇で再発するといけないと思って。」
「あ、ありがとう・・・・・、大丈夫・・・・・」
 俺は呼吸を整える。あの人のおかげで、自らに、そして女の子に毒を植え付けずにすんだ・・・・・
「大丈夫って?なにが?」
と疑問符を頭の上に浮かべている女の子に曖昧な笑みを浮かべると、俺とあの人は観測会会場へと戻った。


 帰り道。時間は大分遅くなってしまった。
 前を二人で歩いているあの人を女の子を見ながら、俺は決心をした。
「あのさ・・・・・」
 俺の声に、あの人と女の子が同時に振り返る。
「君達二人は、どういう関係なの?」
 自分としては、大分思い切った問いだったと思う。と、言っても、俺は心の中で99%、恋人同士だと確信していたのだが。
 しかし、あの人と女の子は、同時に目をまん丸に見開いた。
「え?聞いてないの?」
と女の子。あの人も、女の子の方を一度見ると、
「お前がもう言ってるんだと思ってた」
と女の子に話し、再び俺の方を見る。
 じっと答えが返ってくるのを待つ俺。そんな俺を見ながら、あの人は眼鏡の位置を直すと、こう言った。
「こいつは僕の妹だよ?本当にきいてない?」



 あの人達と別れて、車通りもまばらないつもの帰り道を自転車で走る俺は、何故だか無性に恥ずかしかった。
 恋人同士だと思っていた男女が、実は兄妹だった、なんて、赤面ではすまない。なんて妄想を繰り広げていたんだ、と自分で思う。
 それに、あの人に限ってあんな年下でいつも笑っているような彼女を作るはずない、と冷静になって思う。これも、俺の勝手な考えなのかもしれないが・・・・・
 家に到着して自転車にしっかりと鍵をかけると、俺は静かに玄関のドアを開けた。思っていたより帰りが遅くなってしまった。親はもう寝ているだろう。
「おかえりなさい」
 玄関の向こうから声がして、俺は驚いた。
 眠そうな目をこすりながら、パジャマ姿のセンスパが、そこに立っていた。
「ずいぶん遅かったですね」
 そのしゃべり方は、どことなく不機嫌のようだ。
「先に寝ていても良かったのに」
 俺が言うと、センスパは回れ右をして二階の俺の部屋に向かいながら一言だけ、
「いえ」
と答えた。どうも天候が思わしくない。今のセンスパは低気圧である。
 触らぬ神に祟りなし、という言葉がある。俺はそのまますぐに着替えると、すでに布団を頭から被って寝ているセンスパに
「おやすみ」
と声をかけると、部屋の電気を消した。


 翌日は休日だったため、俺は寝坊しようと心に決めていた。だからこそ、昨日はあの人の誘われて夜遅くまで星を眺めていたのである。
 しかし、そんな俺の考えは叶わなかった。
 朝、俺がベッドでごろごろしていると、既に起きて着替えまで済ませていたセンスパがやってきて、
「朝ですよ、起きてください。いいから早く!」
と俺の身体を揺すり始めた。
「なに?こんな朝っぱらから・・・・・」
 俺が言うと、センスパはツンとした顔をしながら、
「お客さんです。それに、もう9時ですよ」
と返事をする。
 ――お客さん?誰だろう。
「私と同じくらいの年の女の子でした」
 もうちょっと、愛想の良い感じで言ってくれてもいいのに。
 俺はそう思いつつ、急いで着替えて一階へと向かった。
 一階のダイニングに降り、俺はそこにいる人物を目にしてとても驚いた。
「あ、おはようございます〜。寝てたんですか?えへへ」
 そこに立っていたのは、昨日、俺が勘違いを起こしてしまった女の子――あの人の妹さんだった。
 妹さんは続ける。
「突然ですが、一緒に出かけませんか?もちろん、暇なら、ですけど」
 ――出かける?
 俺は、言葉の理解に数秒かかった。出かける?俺と、妹さんが?
「え、うん、暇だから、いいけど――」
 俺がそう言うと、妹さんはとたんに満天の笑顔になって、
「良かった〜、わざわざ来た甲斐がありました〜」
と言った。


 トースト一枚と紅茶をすすって、俺は昨日から何故か不機嫌なセンスパに出かけると告げ、外に出た。
 行き先は、近場の遊園地。俺が女の子と出かける定番の場所である。今回は、妹さんの方からその場所を指定してきたのだが。
 電車を乗り継いですぐのところにある遊園地のゲートで、チケットを購入する。
 今日は1ヶ月に一度のスペシャルデーのようで、遊園地は大変混み合っていた。
 やっと、順番が回ってくる。スタッフのお姉さんが営業スマイルで
「いらっしゃいませ」
と言うと、続けて電卓を取り出しながら料金の説明を始めた。
「チケットはお一人様1700円で、男女でのお越しのためカップル料金で5%引き、そこからさらにスペシャルデーのため、10%を引かせていただきまして――」
「2907円ですね。はい、どうぞ〜」
 お姉さんが電卓のイコールボタンを押すより前に、妹さんは財布から千円札二枚に小銭を数枚、ちょうど2907円を取り出してカウンターに出していた。
 スタッフのお姉さんも少し驚いているようだ。さすがはあの人の妹なだけはある、物凄い計算の速さだ、と俺は感動を覚えた。
 ゲートをくぐり、俺は目の前にあったアイスクリーム屋で二本のアイスクリームを買うと、一本を妹さんに私、自分の分の入場料である1500円とオマケの500円で、千円札を二枚渡した。
「え、でも、入場料を割り勘すれば1500円で大丈夫ですけど――」
と妹さんが言うので、俺は
「割り勘じゃなくていいんだよ」
と言って、札を握らせた。
「でも、どうして急に俺なんかを遊園地に誘ったの?」
 妹さんが何か言いたげだったので、俺は先に話題を作った。
「昨日、あまりお話できなかったなぁ、と思って〜」
「俺、あの人に妹がいたなんて知らなかったよ」
「去年までは私は関東の方の遠い親戚に家に住んでたんです。それで、今年になってこっちに越してきて、兄と同居しているんです」
 妹さんはそう言った後に、えへへ、と笑うと
「名前で呼ぶと誤解されるから『お兄ちゃん』と呼べ、って兄に言われちゃいました」
と付け加えた。
 どうもあの人には、誤解される、ということ以外に他意がありそうだが、あえて口にしないことにする。
 雑談を交わしながらアイスを食べる。そんな、昨日となんら変わりないような状況――昨日の方が舞台はロマンティックだったかもしれない――で、俺は妹さんのことを見ながら、ふと考えた。
 この子、可愛いな、と。


 いろいろとアトラクションを回って疲れたのか、妹さんは昼食にしよう、と提案し、俺もそれに同意する。
「兄が言ってましたよ。あなたが初めて隔たり無く友達になってくれた、って」
 妹さんが話を切りだした。
「・・・・・と、言うと?」
「兄はあんな性格なので、女の子からの人気はあってもそれ以上に進展しないし、男の子からの一目置かれていて本当の親友っていうのが、作れなかったんだそうです」
 こういう話をしている時も、終始笑顔の妹さんは、どことなくハピマテの姿を連想させる。
「でも、この前のハピマテ祭りであなたと知り合って、そうしたらあなたは普通に接してくれて――。兄はそれを人知れず喜んでいましたし、あなたに感謝しているみたいですよ〜」
 ・・・・・そんな風に、思われていたのか。
 俺は、真に驚いた。驚いて、そして、嬉しくなった。
 あの人はいつもクールでポーカーフェイスで、何を考えているのか分からなかった。心の中で、俺のことを馬鹿にしているのかもしれない、などと思ったこともあった。
 でも、今の妹さんの言葉をきいて安心した。
「私もこうしていると、兄があなたを気に入っている理由分かる気がします〜」
「え?・・・・・そう?」
 今の言葉にどういう意味が含まれていたのか、俺の理解を超越している。
 しかし、悪い方向で受け取るような言葉ではない、ということは、何となく分かった。


「観覧車に乗りましょう」
 ほとんどのアトラクションで遊び尽くしてしまい、もう夕方になってきたころに、妹さんは言った。
 観覧車。
 その言葉が、少し引っかかった。
 観覧車に乗ると、俺の精神は少なからず不安定になる。
 今、そのことを意識して乗ったら、俺自身がどうなるか、自分で予想できない。
 だが――
「うん、いいよ」
 俺はそう返事をした。
 ここで断るべきではない。妹さんに俺の体質を説明する、という選択肢もあったが、それはいささか気が引けた。俺を観覧車に誘ったところを見ると、あの人から聞いていないようだ。
 順番は比較的早めに回ってきた。
 二人でゴンドラに乗り込む。ゴンドラはゆっくり、ゆっくりと動く。
「楽しかったですね、今日は」
 妹さんは言う。
「うん、そうだね」
 俺はそう答えながら、なるべく外を見るように心がけた。大丈夫だ。そこまで情緒不安定ではない。
「もう今日は帰りたくないくらい。あ、私の家に泊まっていきませんか?」
 ・・・・・へ?
 妹さんは、その言葉に動揺した俺の顔を見て、えへへ、と笑いながら
「冗談ですよ〜、そんなに焦らないでください。それに、私の家には兄もいるんですからね〜、残念でした〜」
 ・・・・・危ない危ない。鼓動が少し早くなった。
「でもね、私――」
 妹さんはそこまで言ってから、少しだけ言葉を躊躇った。何かに躊躇う妹さんを見るのは、今日で初めてだった。
「私――」
と言葉をくり返してから、妹さんはうつむいていた頭をあげ、俺の方をみてにっこりと微笑むと、言った。
「私、あなたの事が好きです」
 ・・・・・・どうも、今日の俺は驚きっぱなしだ。
「それって――」
「でもね」
と、妹さんは、俺の言葉を遮って続ける。
「兄から聞いたんですけど、アメリカにあなたのことが好きな女の子がいるんだとか。すごーい。遠距離恋愛ですね〜」
 妹さんは表情を変えない。
「それに、兄の分析によると、近くに女の臭いがするんだとか。兄の勘って当たるんですよ〜、こういう時は〜」
 ・・・・・センスパのこと、なのか?
「だから、話足は最初からあなたを諦めてます。なーんて、えへへ、言い訳みたいですね。私なんて、振られるに決まってるのに、告白なんかしても」
 俺は、何も言えない。動揺して、何も言えない。
 ゴンドラは、回る。

 突然、そんな告白をされても困るのは俺の方だ。
 しかも、状況は密閉された観覧車のゴンドラ内。ここで、自分の鼓動を早めるのには、いささか問題がある、ということは、自分でもよく認識している。
 表情一つ変えず、にこにこしながら俺の方を見ている妹さんも、しだいにその頬を紅潮させていった。向こうも、内心では鼓動を高鳴らせているのだと思う。
「え、えーと・・・・・」
 俺は、とにかく何か言葉を口に出してみることにする。まったく無駄な言葉だと自分で自覚する。何も考えずに言ったので、後に続かない。
 ゴンドラは頂点を通り過ぎ、しだいに降下していった。何度もこの観覧車には乗ったことがあるが、地上につくまではあと2分ほどだろう。それまでに、俺は何かしらの返事をしなければならないのだろうか。それとも、この無言の状況を続けておくべきなのだろうか。
「お願いがあるんですが・・・・・」
 突然、妹さんが話しかけてきたため、俺の身体はびくっと震えた。相手に知られないように、静かに深呼吸。よし、大丈夫だ。
「えっと、なに?」
 自分の声を自分で聞くかぎりには、異常は見られない。自分の精神にも、異常はない――と思う。
「あのね、えへへ、言うの恥ずかしいんですけど――」
 そこで妹さんは一端うつむいた。うつむいたかと思うと、今度はすぐにきゅっと唇を結びながら顔をあげ、笑った。
「私のほっぺにチューしてください」
「・・・・・・・」
 俺の身体が、固まった。
 ――なんだって?
 数秒の沈黙が続く。その数秒が、長い。
 心臓が破裂しそうだ。どうにかならないものか。この自分を、コントロールできそうにない。
 しばらくずっと俺を見つめていた妹さんは、ふっと表情を和らげた。
「えへへ、やっぱり、駄目ですよね――」
 その言葉を最後まで聞く前に、俺はゴンドラ内で立ち上がり、そして目の前にいる妹さんの隣に座り直すと、その小さな顔を両手で押さえるように軽くつかんで、そして、キスをした。唇に――
 二秒間ほどの、ほんのりとした淡いキス――
 俺が顔をゆっくりと話すと、そこには目を丸くさせて俺の方を見て、そして頬を真っ赤に染めている妹さんの顔があった。
「・・・・・ごめん、注文通りじゃないね」
 俺がそう言うと、妹さんは半開きの口を一度きゅっと閉じて、そうしてから
「あり・・・・・がとうございます・・・・・」
と弱々しげに言った。
「はーい、ありがとうございましたー」
 急に第三者の声がして俺は焦った。気付かないうちに、観覧車は一周していたようだ。係員にゴンドラから下ろされる俺達。
 ――やっぱり、俺はどうかしている。
 自分の頭を軽く振って、気持ちを安定させた。もう、大丈夫だ。こんなことはしない。
「――帰ろうか」
 俺が言うと、妹さんはぼーっとした表情を、笑顔に作り替えて
「その前に、もう一つだけ――」
 と言って、俺の手をぎゅっと握ると、そのまま走り出した。


「最後にプリクラを撮りましょう〜」
 軽蔑されてしまったのではないか、なんていう不安もあったが、心配はない――ように見える。
 ゲームコーナーにあるプリクラマシーンまで引っ張られた俺は、ぐいぐいとその中に押し込まれた。
 プリクラなんて撮るのは、大分久しぶりである。
「はーい、じゃあこのフレームでいいですね〜」
 妹さんは慣れた手つきでマシーンを操作する。
『撮影まで、3・・・・・、2・・・・・』
 マシーンがそう告げ、俺は出来る限りの作り笑顔を顔に乗せることにした。
 カウントが『1』になった瞬間、隣にいた妹さんは
「えいっ」
という小さな反動をつけ、俺に両手で抱きついた。
 フラッシュが光る。あっけに取られる俺。作り笑顔も台無しになったかもしれない。
「はい、出来ましたよ〜。えへへ、びっくりしましたか?」
 そう言って笑う妹さんは、朝、遊園地に来た時のまま、そこにあった――


「ただいま・・・・・」
 俺が家に到着したのは、6時前であった。
 玄関に入るとセンスパが出迎えに来る。それを見計らったかのように、俺の携帯が振動した。
 開いてみると、妹さんからのメール。そういえば、メールアドレスを交換したっけ・・・・・
『今日はありがとうございました。楽しかったです〜』
 俺の顔にも、自然と笑みがこぼれる。
 浮かない表情で横からそのメールを見ているセンスパを気に掛けられないほどに、俺は今の幸せに酔いしれることしか考えられなかった。




                  (14話から20話まで掲載)